一説には稀に見る弓術の達人であったともいう。
明治初年の浜松宿大庄屋杉浦彦惣は、中島村の人であるがこの町へ來て余生を送つた。
浜松税務署は明治29年5月1日榮町に開廰したのが最初。この町の本通りは大正11・12両年度に道路を擴張して従前の2倍乃至3倍の廣さになった。現在の巾員がそれである。舊幕時代から明治年間にわたり、今の傅馬町十字路から大工町十字路を経て、大堀に至る区間が矢張り俗に鴨江小路と呼んだ。今の市公会堂下の坂は昔からの合羽坂である。
野澤夏左衛門、山口鐵三郎、中出久次郎、高津元愼、金山宥秀、鈴木一郎、中出久平、稲津梅吉、鈴木權三郎、高田佐十、伊藤梅吉、梅谷甚三郎、齋藤徳治、村松茂友などの人材があった。
利町

浜松城の御用をつとめた刀剣の研師が澤山住んでいて、俗に「研町」と名が付き後ち天明元年に利町と改めた。
徳川家崇敬の五社神社は天正8(1580)年7月浜松城から、又諏訪神社は弘治2(1556)年上中島村からこの地に遷宮した。
寛永10(1633)年兩社の社殿大造營が竣工して、江戸時代美術の粋を集め、壮麗盛観形容を超え東海随一の社として人目をみはらせた。明治以後は風雨に荒れて豪華絢爛の金箔も剥落したが、わが美術史上最も價値高きものとして、大正6年兩社とも特別保護建造物の國賓に指定されて浜松市の總社となつた。
舊幕時代、加茂眞淵少壮時の師であつた森民部少輔暉昌は五社、杉浦信濃守國頭は諏訪神社のそれぞれ著名な神主であつた。國士岡部次郎左衛門政美も明治初年、浜松縣神社取締係を兼ねて五社神社祠官をつとめ、後ち吉田良太郎は長年に亘り兩社の社司として社殿修築に心魂を注いだが、惜しくも昭和20年の戦災で烏有に婦してしまった。
舊浜松市役所は杉浦國頭の屋敷跡で、明治10年劇場常盤座が建ち、明治17年5月浜松裁判所が元城町から此所に移り、大正2年その廳舎に市役所が入った。
井上河内守の奥絵師諸星順平、明治維新の浜松縣令林厚徳らは利町に居を構えた。林厚徳は阿波藩の重臣で録高8,000石、文武兩道に達した稀有の偉材であつた。
研師の名工では杉浦大八が最も知られ東海名工傳に載る。
日本左衛門こと浜島庄兵衛を張本人とする白浪五人男が、延享3(1746)年春(205年前)この町の美濃や呉服店を襲つたという話は名高いが、実は日本左衛門が美濃やに泊っていて居直り、御用金三百両を捲上げたもの。その時は他に南郷力丸だけがいて五人男は勢揃いしなかった。手配された日本左衛門の人相書は
- せい5尺8・9寸、小袖くじらざしにて3尺9寸
- 歳29才、見かけ31・2才に相見え候
- ひたいに引庇1寸5分
- 色白く齒常の通り、鼻筋通り、目中細く、貌おも長なる方、えり右の方え常にかたむきまかりあり侯
- びんは中びんにて少しそり、元結10程を巻おり侯
- 逃走り候節着用の品は綿人小袖、絞所丸之内にたちばな、下二單物もへぎ色紋所同斷
- 脇差2尺5寸、鍔ふくりん金福人模様
- 印籠は烏のまき繪
結局延享4(1748)卯年3月京都町奉行所に自訴し、江戸に送られて斷罪に處せられた。
|