浜松風土記
会田文彬
昭和28年12月
浜松出版社
海老塚町
旧幕時代は獨立した海老塚村で87石の石高を有した。明治22年町村制が施行された時浅場村に合併してその大字となり、同41年10月1日浜松に編入された、浅田、砂山に接して海水や河川と関係をもつ。海老塚の文字を海蝦塚、龍蝦塚などと當てた古文書のあることによってもうなづける。
往昔この辺で澤山の海老を産したとの説もあるが、海老は古來祝儀はもちろんすべての慶事に専ら重混された。ヒゲ長く腰曲るがゆえに「海の老人」の意にとられ、祝儀にこれを尊重するのは海老の形ちをとって、ヒゲ長くのび腰のかがまるまでも長命であれかしと願う心からといはれている。
家に老人があるのはその家繁昌のもとゝいゝ、また寄寓の長老あるは富貴のしるしとして長老を尊ぶことに発詳する、正月に用いた海老の殼を貯えておいて疥癬、小便ふさがり、氣息の急なる時に水に煎じて用ゆれば妙薬になると古書にある。
大正14年5月1日乱雑な地籍を整理して飛び地を鍛治町、砂山町、千歳町、半田町、塩町、成子町に割譲して、新たに淺田八幡地、東鴨江、鍛治町の各一部を編入した。鹿島神社のある所は俗に宮西という。天林寺末の用源院という寺は旧幕時代に有名であったが明治6年廃寺となり、舊海老塚村大嚴寺は成子町の地籍に入った。
南校は明治42牟4月の創立。水野茂吉、同朝次郎、清川庄太郎、杉本代次郎、高見増蔵、田中常吉、清川榮太郎、吉田猪太郎らは功勞者。
砂山町
この地往昔隨所に大小無數の砂丘が点在していた、これは遠江灘や大天龍の變異を語るものとされる。
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さして高き山にはあらず、かりそめの丘山なり。ただ砂のみありて土、石も見えず松の生い茂りて落葉拾う童子共、日毎にかの砂を踏み出しぬれども夜の間に又元の如くとなりぬとなり。さる故にやこの山に浅間の神を祝い祭れり。この神いかなる靈験をや示し給いけん堀尾帯刀吉晴先生の深く崇め給うとなん。
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と曳馬拾遺に記してある。この堀尾帯刀は天正から慶長にかけて18万石の濱松城主であった。
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堀尾帯刀本國尾張、姓高階、高階中務少輔吉久の子。幼名を仁王九といい後ち茂助、帯刀と改む。天正18年5月近江國佐和山4万石より濱松に移封、慶長4年子信濃守忠氏家を繼ぐ。関ケ原役に功あり慶長5年10月、出雲、隠岐両國23万5千石を賜り濱松より松江に転封、その年氏忠卒し、子忠晴嗣ぎしも慶長16年又卒し、跡目絶え翌17年吉晴69にて卒し、國除かる。(武將傳)
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堀尾吉晴は羽柴秀吉に従って山崎合戦にも參加した。織田信長が本能寺で明智光秀に害された弔合戦は、秀吉方の一方的勝利に終わつたが、秀吉方はかんじんな光秀を取逃がした。一方光秀は闇に紛れて自分の本城の坂本へ落ちて行く途中、伏見を過ぎて小栗栖村に入った時、突然片側の竹薮から竹槍が光秀の脇腹めがけて突き上げて来た。光秀が「不覺ツ」と思った瞬間には馬からどうと落ちて絶命した。この光秀を突殺した小栗栖村の土人を補えて(光秀の首と共に)秀吉の陣屋へ引立てたのは堀尾吉晴であった。
古くは獨立の砂山村後ち白脇村砂山と稱し、明治15年浜松八幡地と改め同37年寺島、龍禅寺と共に濱松町に合併大正14年4月正式に砂山町と公稱した。國鐵浜松驛南方一帯に及ぶ大きな町で第1から第6まで六つの行政區になっている。
見渡す限り砂の丘と松ばかりであった砂山も櫻町天皇の享保年間から開墾が始まり文久、元治にかけて一大美田が造成され明治30年頃まではまだ殆んど田圃であった。
海老塚町に跨がる新川の鐵筋八幡橋は400万円の工費で昭和28年6月11日竣工開通した。
古刹新豊院は遠江風土記傳に
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新豊院在浜松、曹洞宗普済寺末(十三派透翁派)寺田14石7斗1升、末寺一宇」
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とあり康正元年華藏禅師入定の地で此所に開山塚があった。
富田儀一郎、足立亀太郎、大石文一郎、水谷源重、堀内勝治郎、伊東八郎、大原寅吉、大石宇吉らは功勞者。
寺島町
順徳皇の皇子寒巌法皇は北条氏のため佐渡に流されたので、憤られ九州に脱出して肥後大慈寺に止まっている内に、高齢のため薨去した。
五世の孫に当る華藏禅師が應永4年の秋、その遺骨を奉持して従者二人と共に東國に下り、遠江國寺島郷の小庵に憩うていた時、たまたま領主の吉良左兵衛佐(太平記巻9に元弘3年吉良一族遠江に城郭を構うとあるのは今の蜆塚町宗源院をいう)が狩獵の帰途華藏禅師を発見、小屋から城に案内して歸り、いんぎんにもてなした上、寺島郷の大天龍河辺に本能山随緣寺を建立して法皇の遺骨を埋葬し墓陵を築造した。
後ち応永14年寺島郷に水害が多いのを憂えて陵を富塚町廣澤山(今の普濟寺)に移した。今川氏が普濟寺を開基し300石の黒印を附したのは5年後の應永19年でこれは寺島郷にあった随緣寺を移して寺号を改めたもの。
寺島郷は後も敷地郡寺島村、さらに濱名郡白脇村字寺島と稱し明治6年浜松宿の行政區に編入、同37年12月正式に合併となった。大天龍が流れていた頃は寺島から向宿へ渡船が通っていた。
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文安2年美須朝臣重光が後花園院の勅命により東國に下る時、奥方と従者を引具して寺島郷に入って一軒の家に宿泊した。
宿の主が厚くもてなし「この郷には盗賊の害多く、とりわけ美目よき女人を奪い去りまする故、今宵は奥方様の御身にお氣を配られますように」といった。
重光は「我は本國において猛き者のひとりと數えられた身、殊に天聴の命を蒙り東國の鎮めとして參るものである。何とて賊どもを恐れよう。」と答えその夜朝臣と奥方は正面の間に臥したが、夜更けて朝臣が物音に目を覺ますと身の丈六尺以上もあるかと思はれる仁王の如き男二人が、奥方を抱えて逃げ去ろうとしていたので、従者らと共に二人を捻じ伏せた。
濱松山の手に大きな山塞があり、そこに異同人を長とする百名余りの豪賊の佳むことが分って、これを一人残らず退治た。
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ということが海道鎮魂記に言いてある。
松本兵次郎、武田叉七、同勘平、武田信太郎、松本杢次、藤田彌三郎、杉木廣士、今泉小兵衛らは功勞者。
武田信一氏方から寺島町に関する記録が出た、これは大正11年五月「濱松市區地籍整理案」が成った時に当時の「濱松寺島」を廢除することに、猛反対を唱えた寺島區総代武田信太郎、山内音次郎、太田源七及び、八幡地區(砂山)総代伊藤八郎、大石宇吉、岩間佐一郎らが、署名建言の上濱松市会に提出した陳情書の中に、書き添えた寺島町の歴史的考察資料である。
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「由来寺島なる名稱は古き歴史を有す、古き沿革を有するの地區名は改廢を許すべきにあらす。
風土記傅には「富塚村普濟寺、初在寺島郷、正長元年、華藏和尚,至寺島在草庵、号随縁寺、地有水難、永享4年移干富塚」とあり。
又普濟寺縁起に普濟寺は初め濱松の南なる寺島に建つ。正長元年僧華藏開基、禅宗法皇派の名藍にして東海曹洞第二本寺と稱す、永享4年富塚に移し天正10年徳川家康改修して田禄を給す」
旨あり、正長の牟号は稱光天皇の応永34年4月27日の改元に係り、同2年9月5日永享と改元さる、当時既に寺島郷ありしを知るべし。
右随緣寺は後ちなお寺島村に存し、時に興廢あり近時住職遷化の後ち、寺名遂に村櫛村に移りしといえども、500年の久しきに亘り區民の祖先これにより佛心を練り子孫又これによりて祖先の冥福を祈念し來たれるものに属す。
その古い歴史的縁起は以て區民の誇りとする所なり、けだし寺内に後鳥羽法皇の皇子寒巌禅師の廟ありしの故を以て、歴史的考證に資するに足るべし。
當區内の小字に随緣寺東、又は西等の名稱あり、寺島なる名稱と右随縁寺の事跡とが、區民間に有形無形緊密有縁の関係にあるを知るに足るぺし。又區内に八百神社あり、万治年間の祭祀にして國挟槌命を奉遷す。
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明治4年廢藩置縣の令出で遠江國濱松縣を置き、分ちて69區寺島村はその一区なり。明治6年林厚徳縣令となるや大區小區の制を採りその第1大區1小區に寺島村存す。
明治9年濱松縣を癈し静岡縣に合併にあたり濱松支廳置かれ、當時長上、敷地、濱名の三郡はここに静岡縣第12大區に属し、更に30餘小區に分たれ、その第12大區1小區に敷地宿濱松宿あり。この濱松宿は寺島村及び名残村より成る。
明治12年3月13日豊田部に属する十ケ村を長上村に編入せらる。当時敷地郡濱松宿に濱松寺島なる名称存す。
明治29年4月1日郡の廢置分合あり。当時寺島は濱名郡白脇村の一字となり、明治37年12月白脇村の地籍に扇する濱松寺島、濱松八幡及び龍禅寺は濱松町に編入せられ今日に及ぶ。常時の面積は12万坪なり。
淺田町
元來農村で明治7年浜松宿に編入、同11年分離、明治22年浅田、海老塚、東鴨江、伊場外六ケ村と淺場村を組織し明治41年浜松に再編入せられた。
浜松覺え帳に「朝田郷にては毎年2月8日、12月8日に芋、こんにやく、小豆などを入れて汁を煮る習はしあり、これ事初めと事納めなり、又これを無実汁とも申し無実の難をまぬがるる義なりと傳えたり。」という。
「遠州浜松庄朝田郷」といつた時代がある、古書には淺田、朝田の文字が何れも書いてある。往古には大天龍が㴞々と流れ賓暦年間まで大きな水神の社があった。
俗に「浅田の賓船」といわれたが、賓船とはもろもろの財賓と七福紳とを乘せた船である。賓船も七福神も明るい希望的な理想境を現わした縁起の象徴でこの土地が河や海に関係あったことの證左である、
龍ケ崎妖蛇の怪(瓜内町の巻参照)によっても判断ができよう。
日本財政要論の著者小池文雄は政経学の権威で廣福寺に墓がある。廣福寺は伊勢國一身田専修寺末で大賓元年の創建、境内に由緒の唯心坊がある。また慈光院は新橋町元方廣寺派太通院の末で永享5年に創建した。元の浅場村は淺田の淺と伊場の場を取って付けた名稱。
小池仲次郎、同市太郎、同辯三、同榮太郎、同一恵、同染次郎、岡本彌八郎、横井勝三郎、伊熊牧太郎、植田徳一郎らの功績は大きい。
菅原町
濱松宿の西端七軒町と上新町を明治15年6月合併して、当時上新町に天満宮があったのに因んで菅原町と命名した。
七軒町は寛永末から元文に至るまで、民家が七軒しかなかったので七軒町と名がつき、上新町は下新町即ち今の新町に對する上新町で明和、安永の頃から発展を辿り万延元年七軒町は24戸上新町42戸となつた。
和歌の美仲に俳句の花香といはれた柳瀬美仲は、京都及び江戸へ出て鳴らしたが万日堂中村花香は七軒町で世を終つた。
当時紺屋町にいた鳥居柳也も花香の盛名には一歩を譲っていた。花香門下の逸材に精々舎諸水、柳也の門人には堀川鼠來、竹山竹林庵等がある。
明治14年5月上新町から伊場を経て入野村に至る、延長28丁8間の井ノ田川堀割工事が、濱松勤番組頭井上延陵、同副役田村甲蔵らによって計画され、翌年三月竣工し上新町の堀留から濱名湖西岸の新所村まで小蒸汽船が開始され、明治22年東海道線鉄道の開通を見るまで、上り下りの旅人でごった返す繁盛を極めた。
海道紀行に濱名湖の水面は東西56丈とあるが、それはずっと昔濱名川といった時代、即ち明應7年以前のことで、三代実録にも56丈としてある。
さて俗に大堀遊廓と呼ばれて上新町に遊女屋が五軒並んでいたのは、明治24年迄で旅寵町へ合流した。
井ノ田川はただに交通運輸のみを目的としたものでなく、食糧增産の面に果した役割は極めて大きく井ノ田川のもたらした沃野が持つ経済力はけだし計り知れないものがあった。
井上延陵は通稱八郎、清虎と名乗り日向國延岡の人であるが、天保元年15の時に江戸へ出て劍聖千葉周作の門に入り免許皆傳高弟に列し後ち幕府講武所の教授となった無双の剣客。
徳川慶喜が大政を奉還し家達が15代を繼ぎ駿遠に封ぜられた際に、これに従い藩政の初め濱松城代に任ぜられたのが縁となって、濱松には数々の功績をのこしている。
明治9年七軒町に設置された修道学校は同19年新町明倫学校と合併し濱松尋常小学校となった。
桑原爲十郎は濱松実業界の大立物。伊藤宗作、木村源三郎、高杉勝治郎、磯部勝治、安藤喜和次、中村佐吉、天野文太郎、今村春吉、住岡喜兵衛,川島俊吉、鈴木文次郎、藤田憲治、増井次郎作などがあった。
成子町
猿廻しがいた猿屋町と成子坂町が明治15年に合併して成子町となった。
猿屋町は東通りである。猿屋は猿曳、猿使、狙公、狙翁などの名がある。猿使いは足利時代に初つたものということだけは殆んど通説である。倭訓栞に「公家に必ず猿廻しを扶持するは厩馬の用なり」とあるが、これは町を歩いた猿廻しと違つて、武家が馬の祈禱に用いたものである。
嬉遊笑覧には東鑑を引いて
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足利左馬入道義氏朝臣、美作國より猿をもうけたり。その猿えもいはず舞いけり。入道将軍の見参にいれたりければ、前の能登守光村に鼓を打たせられて舞われけるに、まことに興ありてふしぎなりけり。けんもんさのひだたれに袴にさやまきさせて、えぼしを着せたりけり。
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云々とあってその狀が如実に出ているが、猿使いの起原もまたここに発したといわれ、ここ猿屋町の猿曳は初め濱松城の御用をつとめ、だんだんと町廻りの門付けをするようになった。
成子仮について古文書には鳴子坂と書いてある。文禄の頃此所の丘山の草堂に地蔵尊が据えてあり、その傍らで棄子の悲しい泣き聲が絶えなかった。それで人々泣く子坂又は捨子坂と呼んだ。曳馬拾遺に
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この坂は都にひなに行き來繁き道なりけるに、夕されば旅人辛うじて越え、とかくと罵り合えるを日毎に見聞きして、里の人ども公けに訴えて、慶長の頃この岡をうがち平げて今の所にぞなしける。成子坂の坂路も登り下らん苦しみもなくなり、濱松の榮え行くまゝに家門をつらねて、いみじき町とはなりにけり。
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とあるから東海道の難所であったことが知れる。
坂上に正長年間愛宕神社が祀られたが、永禄7年武蔵の國飯倉山に遷宮された。釋沢庵はこの鳴子坂で休息
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里の名は問はれても知る沖津浪、こすえにひびく濱松の音
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とうたった。
東漸寺は今川家の濱松城代西尾豊前守の菩堤所。法林寺に芭蕉の
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| 「月影や四門四宗もただひとつ」
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の句碑がある。
大嚴寺は元海老塚村で、開運摩利支天は参詣の老若男女群集した時代があり、又この寺の仇討哀史は有名で、今もその由緒の觀音堂が祀つてある。西道寺は天正3年の草創
濱納豆を濱松名物にしたのはやまや初代鈴木幸作で、神谷の忍冬酒も浜松名産であった。
田畑重次郎、同庄吉、谷澤孝道、鈴木五郎作、小杉林平、山本六兵衛で田畑勝次郎、同良三郎、井村圓次郎、同清吉、富田寅次郎、小林末吉らは功勞者。また鈴木小吉後ち改名の幸作は市会議長、消防組頭、会議所会頭、貴族院議員をつとめた。
塩町
元亀3年12月22日徳川、武田浜松で激戦。家康は身危険となったが討死の間一髪、夏目次郎左衛門に救はれて單騎浜松城に遁がれる途中、塩賣の商人と出遭い、簑笠を借受けて着用、敵追兵の目を避けて漸く城中に入った。
その後塩賣商人は城下者と判り恩賞として塩専賣の墨付を与えた。それで商人の住んでいた土地に塩市の名がつき、後ち塩町と改めた。
この塩専賣の特権が享保年中問題となり、当時の代官会田伊右衛門之通は家康の墨付を確認して、浜松宿外22ケ村へ申渡し紛糾は一應解決を告げたが、後年になって町の火災により所蔵の墨付が焼失し、今度は浜松領外の天龍、二俣、氣賀、井伊谷、馬郡、和田村等がら江戸幕府に訴え出て、評定所の栽定を受ける騒ぎを起し、2年越し吟味が行われて結局塩町の特権を認める老中連著の栽定が下った。
有名な鳥居縄手は塩町から東伊場を経て鴨江町に通する大路で鴨江寺の鳥居が建っていた。曳馬拾遺に
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この縄手は浜松の西の大路なり、昔鴨江の大鳥居は鳥居坂にありけるに、この縄手より見えはべるままに 此の名あり、又元濱松の八幡の神、小澤渡村に御幸ありし故、この大路よりかの村に入りぬる口に、大鳥居ありしによりてこの名ありといえど、この事は定かならす、鴨江の鳥居の事と覺えぬ。
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といい、又鳥居坂のことを
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この坂は伊場村の東の山尻にありし、鴨江の大鳥居この坂の下にありて、霜雪の年を經るままにくち失せねども、その名は残りにける。草の細這の僅かに残る。片端はきり岩高く聳え、片端には山水の流れし跡など、結ぶ手の雫にやにごりぬらんとおもゆるばかりなるが、この頃は水も絶えて久しくぞなりにける。
鴨江の御輿御幸の折柄は、産子共つどい詣で種々のつくり物など物具の粧い、づづみ、笛、旗矛おもく唄い詣で祭るさまなど、物見に集う人は大路に引きもきらざる中にも、大きなる矛打ちかたげて御輿の先に進み行くおの子、えいえいえいと唄う。数多の童子共はかの男につきてわいわいわいと唄う。これなん古き世の残れる法なりとこそ覺ゆ。
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などと書く。松尾神社はもともと塩市口の前に鎮座していたのであるが、家康在城中の天正5年に今の所へ移された。國学者秋田信平をはじめ三好菖軒、水島敬四郎、尾上歌吉、小山與七郎、同杢太郎、同角次郎、富田玄仙、柴田竹次郎、秋田保次郎、渡邊九一郎、河合源三郎、丸山門次郎、須那彌一郎、加藤兼吉などの人物があり、竹山平八郎は第二代浜松市長、長男竹山亥三美は市収入役をつとめた、旅籠町に隣接し舊幕時代から旅人宿が兩側に四戸ずつ八軒り、中でも西側の今村太代七、山屋保次郎は明治まで著名であつた。
平田町
浜松城下の平田町と平田村が合併した。同じ土地に村と町とがあった。
宗源院の末流西見寺に琉球塚がある。
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燕姓中西筑登之者琉球国中山王使美里王子之家臣也従美里往江都時寛永7年庚寅11月2日囚病死於遠州浜松駅行年40理屍於西見寺。
同國友人 泣血 誌
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寛永7年11月琉球國の使節が行列をつくつて江戸に卦く途中、浜松に泊って正使の親雲上國香が病歿した。曳馬拾遺は
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琉球塚は平田町の西見寺の中にありて、遠き山海を越えてここに來りて失せぬること誠にいたましきわざなり。この西見寺のあるじ凸厳叟やがて「忠道義心居士」とおくり名しはべりて、すなわちその事どもとりどり記しつつ、かの國に送りし、然るに今年(正徳3年)彌生中の5日ばかりにさつま中将家の侍、琉球國長壽寺より書なん送りしものどもを凸厳叟に傳えければやがて又返しの書をなしてかの人に傳えぬ。
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とその往来の害を記しているが、嘉永三年にも琉球國使節儀衛正が浜松で病歿したのでこの寺に葬った。
享保文化の頃万戒寺前に、毛利家の浪人で北辰一刀流の剣客天野大治郎が町道場を構えていたが、松平藩の福島主計、石井嘉右衛門らと果し合をしてずたずたに斬り殺された。万戒寺は天台宗で西見寺の西にあつた。
多くの維新の志士を薫陶した國士木村龍江は元治元年12月18日歿しこの寺に葬った。享年27。この町は明治まで町の中を堀川が流れその堀端は柳の並木で風情があった。
明治6年2月散髪の儀布告につき平田堀端に浜松藩の制札が立った、次は要約した布告の一説である。
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それ浜松縣下戸数8万8716戸、人口43万7753人剃工のために費す1年1人60銭、児童といえども又同じ、香油元結及び衣服を汚穢し空費鮮少ならず。今ぞ陋習を去り散髪の風に移らば、一は以て衛生の道を得、一は以て冗費を省くの一端となる、開明の時体において正に一歩を進むというべし、よって茲に告諭す。浜松藩
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明治6年の浜松縣は全國でも有力な縣であった。
松下茂平、松下太平、松下九平、鈴木清吉、天野為五郎、天野甚藏、高見増藏、岡本國吉らは町政に盡力した。
旅籠町
旅龍町は浜松城下西の入口の立場であった。
東海道は西から八丁畷、上新町、七軒町、成子坂町、塩町とあっても多くの旅人はこの旅籠町まで來て泊った。
徳川時代の傅馬本陣は、特定の大名と禁裏御所、幕府役人の宿泊所で旅龍町に一般旅人を泊める宿屋が軒を並べていた。延寳
(1673-1681)年間20戸あった。
宿屋すなわち旅龍屋で、宿泊料のことを旅龍賃といった。東海道は皇代記に孝元天皇57年に開くとあるが、それからずっと降って康徳天皇の大化2年に驛馬の制度が設けられ、和銅6年には天明天皇が旅人の不便を救うため、街道筋の要所で米を賣ることを許した。
徳川時代に入って慶長6年大名の參勤交替と宿驛傳馬の制度ができて、五十三次が定まり、東海道の往来は漸く頻繁となった。
白須賀、新居、舞阪、濱松、見付、袋井掛川、日坂、金谷を「遠江九宿」と呼んで五十三次に本陣、旗本屋旅人宿などの宿舎の始まったのはこの時からである。又街道の松並木は
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天正5年に、織田信長が奉行に命じて道路を修理させ、道の両側に松や柳を植えた。
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と、信長記に書いてある。もっと古代には旅人が餓えぬようにとの思いやりから柿、栗その他の果樹を植えた。
浜松には栗の木が多く名残町附近ー栗原驛といったのもそのためである。
文久年問までは成子、塩町、紳明、田町、板屋町、新町および馬込川以東には、延々と松並木が續いていたが、高町、廣沢、名残方面の山ノ手には大正初期まで栗の木が澤山殘っていた。
この旅寵町には元録以後、飯盛茶屋や貸座敷が段々と殖えて来て、いつの問にか駿府の二丁町に劣らぬ色里となった。
賓暦12年の遊女屋は大小取り交ぜて21戸であった。
傅馬町との境に小橋があり、行こうか戻ろうか「思案橋」と呼ばれ、橋の袂に柳の枝が垂れ下り、幾つかの雪灯が立ってなかなか情緒が濃かつた。
この土地は雛祭りを盛んに行う習俗があり、全盛を極めた遊女の源氏名には皆競つて雛の字を冠し雛菊、雛女、雛鶴、雛駒、雛松などととなえた時代もあった。
年移り人替って明治20年現在の主な貸座敷は、東側にこまや、新大和、塩板屋、金井や五三郎、清水樓清水金蔵、蠟燭屋鈴木村次郎外5軒、西側は杉浦樓山本喜十郎、金井屋外4軒であった、大正11年休馬町の貸座敷數戸を加えて計22戸が鴨江町に移転して二葉遊廓と稱して東海の不夜城といはれた。その頃思案橋も川もなくなって、今の旅龍町は相貌をすつかり變えてしまった。
川口左十郎、伊藤士郎、河井吉重、鞍智逸平、清水寅太郎、杉浦定太郎、同武次郎、岡本甚七、大庭勘七、清水喜久治、同金三郎、山本明納、根本長太郎などは知名人であつた。
伝馬町
徳川時代に傅馬、連尺、旅龍、塩、田、肴の六ケ町は役町と稱し、浜松宿を代表して傅馬役を勤めた。
諸國代名參動交替の道中、京都御所幕府役人往末に当り、人馬の繼立てその他一切の公事を司った。その代り役町としての権利を與へられ、年貢御免の特典にも浴した。殊に傅馬町には問屋場、本陣、脇本陣が置かれ上傅馬中傅馬と下傅馬があって、浜松宿の中心地として栄えた。
享保16(1731)年10月8日尾張中納言徳川宗春が傅馬本陣に泊った時の浜松の騒ぎは、前代未聞のもので未だに古老から語り傅えられている。大名旅行というものは今の人の想像も及ばぬ仰々しいものであったが、この時の徳川宗春の行列は豪華というか華麗というか、宗春自身のいでたちは、絢らんの着物にぺっ甲でつくつた唐人笠をかぶり笠の上には大鳥毛を立て、金ぷくりんの飾り馬に乘つて、これに従がう800余名の侍達は、一人のこらず華美なみなりに花笠をかぶって浜松城下へやって来た。
9月23日に江戸を出て國入をする途中であるが、傅馬本陣、脇本陣の収容力は無理ををして6-70名そこそこで、殘る供侍には「土地を賑やしてやれ、遊樂勝手たるへし。」との許しが出たので傅馬、連尺、旅寵町を中心に浜松中の宿屋、料亭、遊女屋はこれらの人々で一晩中どよめき立つ大騒ぎであった。
尾州家の祖先義直は家康の第九子、浜松で生れた第三子秀忠は二代将軍となり、又浜松城主であった紀伊頼宣は第十子であるが、七代将軍家繼が正徳3(1713)年4月30日急に薨じて、この尾張宗春の父繼友が当然八代将軍になるべきところ、紀州家から吉宗が出て将軍職についたので、尾州家はつむじを曲げて幕府にたてつき、随分勝手氣儘なことをした。
さて賀茂眞淵の妻板谷いそ子は傅馬本陣の娘である。浜松宿大庄屋として民政を司った杉浦彦惣も上中島から出て傅馬本陣を勤めたことがあり、旅館大米屋鶴見新平は浜松町長數期、浜松市長事務取扱などをした。
明治4年浜松郵便取扱所が今の東海銀行の所に設置され、明治11年第廿ハ國立銀行(頭取井上延陵〕が上傅馬に設立、明治21年子の日座、同23年若松座、41年寄席の寳來亭が建つた。
浜松商工会議所は明治26年4月の創立(田町)。俗に小野組の火事というのは明治8年4月27日拂暁、金融業小野組の店から出火し、傅馬全町と隣接9ケ町計701戸を灰にした、浜松始まっで以来の大火であった。
古刹教興寺は馬込川堤防から越して来たが、第18代覺阿玉志和尚は慶長元(1596)年12月1日夜9ツ時本堂から出火、猛火の中を隣りの浜松牢に走り囚徒を解放してから、念佛を唱えつつ火達磨となって自ら焼け死んだ。又第40代國島住職も昭和20年6月18日の空襲で焼死を逐げた。
林正照、林彌十郎、殿岡善太郎、同善次郎、平野盛治、植田耕作、大庭久七、井上五郎、百合山權三郎、川瀬豊三郎、正岡甚四郎、倉橋金作、佐藤惣三、村田清七、渥美市平、田口源六、松山孫一、正岡芳太郎、池田幸次郎、森武ハ、加茂桂太郎、藤田壽太郎らがよく町発展に儘した。
今の十字路から北傅馬、若宮小路までの間を中傅馬、それから以南を下傅馬という。上傅馬の諏訪小路に明治天皇行在所がある。
舊幕以来著名な貸座敷は諏訪小路の松琴樓スミ、中傅馬の井上五郎、天戸かつ、大阪樓きぬ、澤瀉屋源六、米久松山久次郎、下傅馬和泉樓、紙屋、壽山樓など、劇場子ノ日座は下傅馬から上後ろ道に通ずる小路の北側にあった。
千歳町
昔の上後道、中後道、下後道で、大正14年に″千歳万歳″の語義から千歳町と改めた。
西通西を上後道、今の浜松座通りを下後道、その中間を中後道といった。
徳川家康在城中の天正5年に傳馬町西側に浜松最初の牢屋が造られたが、慶長元(1596)年12月1日隣りの教興寺から俄火が出て焼失したため城主堀尾帯刀が新獄舎を下後道に建て、さらに文化15年水野越前守が女牢一棟を増築し、次で弘化元年その隣接地へ底無牢をつくつた。
底無牢は表面いかめしい門戸を構え竹矢来を結い廻してあったが、奥は海老塚村に通ずる田圃道で、微罪の者を吟味の上収容し、その実は釋放したもの。場所は今の浜松座通りの南端であるが、明治5年浜松囚獄と改稱して高町へ移転した。
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水野越前守忠邦濱松に在りては常に意を民治に用いたるが、そのうち斷獄の一事において常時他に類例なき新法を講ぜり。
けだし幕府時代は刑罰極めて峻烈にして、今の輕罪たるべき者と雖も常時は重罪を以て処斷せられ仮借する所なし。忠邦その輕罪にして誤りて之を犯したるものは罪人たらしむるに忍びず。
ここにおいて後道牢地續きに、前面のみ門戸を構え、竹矢来をしつらえ之を底無牢と稱す、後面は田圃より村落に連なり往来自由なり。初犯にしてかっ質朴なる百姓町人は一應吟味の上、底無牢ヘ入牢申付けると宣告し、役人はその罪人を率い来りて牢門を開きこれに入らしむ。
その入れられたる者は直ちに己れが家に歸りて本業に就くを得。何等罪人又は前科者と稱せられる事なかりしなり。これ実に忠邦の創意に出でたる良民保護に基ける處刑法なりしなり。(市史)
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水野忠邦は歴代浜松城主中の英邁で、19才唐津6万石の城主となり文化14(1817)年、時の浜松城主井上河内守正甫が事をもつて奥州棚倉に転封と聞いて、自ら請願して浜松に移封してきた。天保9年老中に任ぜられ縦横の手腕をふるい、浜松城には撃剣槍術の達人を多くあつめて士気を起し、全国的に流行した武士のぶっさき羽織というのは浜松から始まったもの。
農具便利編その他幾十種の著書を世に出した、忠邦の儒者大倉亀翁および、長沼流兵法の達人で明治維新に山梨縣参事に任じ、後ち明治8年日清通商條約締結に当り、柳原前光公使の主席随員に選ばれた矛何人名倉信敦はともに下後道の濱松牢屋の前側に住んでいた。この外下後道にはおよそ50戸の武家屋敷が散在して相當名のある侍が住まった。
有名な劇場歌舞伎座は明治33年今の浜松座は大正3年の創設である、下後道に料理店芙蓉館、島屋支店倉橋金作,明石屋支店聴涛館が明治初年以来あった。明治末期から大正へかけて曳馬くらぶと呼ばれた娯樂街は上後道にあった。
明治以来の功勞者に相曾小平次、竹山佐平、岡田安貞、同金正、山田啓太郎、内山嘉吉、山本源一郎、藤田鐵次、尾上嘉平、尾崎又三郎、清水市太郎、藤見治三郎などがあり又久野幸太郎、石岡幸平、および高柳覺太郎と並び稱せられた政治家井上剛一もこの町で世を終つた。
鍛冶町
舊幕時代にお城の鍛治御用が多かった。寛永年中この町の鍛治師が城主の命で七日間濱垢離をとって五社裏の淸水谷で金銀銅の鑄造を行った記録がある。幕末になって米津海岸へ台場が築かれた時には城から砲丸の鑄造を命ぜられた。
鍛治師といっても多くは刀鍛治で鍬、鋤、鋸などを作る農鍛治屋もいたが、大砲の弾丸は初めてとあつてえらく愚痴をこぼしたので、藩の兵法学者岡村杢之助義理が、大筒張立役に任じ砲丸の雛型の圖面などを書き、火薬、地金その他の資材を與へて製法を数え込んだ。
濱松で亥の日の爐開きというのはこの町から始まった。舊暦の10月第1の亥の日に爐を開き、炬たつなどもこの日から入れた。なぜ亥の日に爐開きをする習わしをつけたかは、起原もはつきりしないが、亥の子風といって新暦では11月から寒い空つ風が木枯しを渡そめる。しかし單にそれ位のことではなく鍛治師としての儀式から出たものであろう。歳事記には
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十月ついたち、もろこしにてはだんろの会とて、民間打ちつどいて酒のみ肉をくらい、たのしむことあるとかや。冬の初めなれば、あらかじめ寒気を防ぐこととならん。今もこの日に爐を開くだん爐の意をとれるにや。
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といっているが、亥の日のことには少しも觸れていない。
明治8年4月28日傳馬町小ノ組の火事で、町内62戸が焼けてから鍛冶師は分散し代って商家が立並んだ。偕行社開祖舊佐賀鍋島藩士副島豊策が、鍛冶町今の浜松座北へ醫院を建てたのもこの時で、外科の名醫として門前市を築いた。副島は太田用成に次ぎ第二代浜松病院長を勤め、浜松で初めて幻燈会を開いた文化人でもあった。
文政から天保の頃莊治直胤という刀匠が、浜松座通り入口に住み刀剣をきたえ「遠州浜松にて作る」と銘を入れ凄い切味であった。日本名工傳「荘司直胤は靈夢の土というを、やい刄の湯に合はし、いうばかりなき名剣を打つ」と載る。
時宗教興寺末淨鏡院は明治6年廢寺となり今の静岡新聞支社はその墓地跡である。
黒田稲荷は承應3(1654)年の勧請で鎮座以来、明治19年と昭和27年の二回位置が替った、また齢松寺は明治27年この町から浜松城本丸千疊敷跡え引越して行つた。同寺は上後道と傅馬町の境界、今の傅馬町商工会議所の裏手にあった。
鍛治町が繁華街となったのは明治22年東海道線開通とともに浜松駅が設置されて市内の主要地となってからである。
金原吉十郎、乘松甚十郎、同保兵衛、森久八、秋田菊次郎、新村喜三郎、徳田菊五郎、高橋宗太郎、村越喜兵、金井桂治郎、伊達浜吉、中村順三郎、横山高次郎らは明治以来の功勞者で金原吉十郎の子吉太郎はひと頃浜松の大御所といはれた。なお乘松家には新井白石が宿ったことがある。
棒屋百貨店は昭和11年、松菱百貨店は翌12年の創立で、松菱のできる前は委託会社があり、明治、大正年間にはここで遠州繭取引が行われた。
旭町
元、八幡池と稱し、明治20年頃まで田畑と蓮池ばかりであった。明治4年の浜松覺え帳に
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法雲寺の南の八幡池に今年始めて家建つ、その家、籠を竿にかけて高くつるす。こは如何なる故とも知り難し。人々魔除なりというは心得難し。鍛冶町の職人この村の池端を浄めて火を焚き神事となす。これぞ庭火というふいご祭なり
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とある。ふいご祭りの元祖は三條小鍛冶宗近であった。鍛冶町には刀剣鍛冶師が多かったから、ふいご祭を盛大に行ったであろうが、これによると旭町まで出掛けて行って火をたいたものと見える。
ふいご祭の日にはふいごに関係する鍛冶師、鑄物師、飾り屋、金銀細工師ならびに家族はいづれも業を休み、ふいごを浄めて注連を張り酒、赤飯、みかん、するめなど種々の供物をそなえて祭り、別に饗せんをつくり親戚知己を招いて、祝宴を張るのを例としたもので、溫古名跡誌にも
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11月8日ふいご祭り、すべてふいごを使う職人はこの日に稲荷の神をまつる、俗にほたけという子供あまた鍛冶家の軒に集まり、ほたけほたけとはやせぱ、内より柿、みかんを投げて子供にあたう
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とある。
旭町は明治22年2月東海道線鐵道開通のとき、田圃を埋立て浜松停車場が設置されて浜松町の行政區に入り、翌23年5月「朝日町」と命名した。
当時の朝日町通りは北側の角に林彌十郎の通運社、二軒目が旅館油屋喜平、三軒目が休憩所池川屋金原庄太郎、次が有年樓大米屋鶴見信平、今の浜松郵便局附近は内外國産賣買並に荷質荷為替業の濱松物産株式会社、南側は旅館朝湯館が角で南隣りが同新川屋、東隣りは堀留運送店、その西は萃菖樓花屋佐藤惣藏、その西は直路を跨いで新川橋まで貿易品賣買の物産会社で線鐵道線路の南に物資会社の會庫と浜松銀行があった。
浜松驛前は廣々とした埋立地で今の松江町に通ずる倉庫通りやその北の中通りは田圃道であった。以後漸次市街地を形成し明治37年正式に浜松に合併、大正14年5目2日地籍整理が行われて旭日昇天の語義から旭町と改稱した。
國鐵濱松驛は今の位置から約450米南方に建設を予定されていたが、浜松から遠過ぎると猛烈な反対對運動が起って、現在地に變更となった。鐵道は久しく單線で明治39年10月複線工事が竣成し同時に辨天島驛が開業した。
話はそれるが天龍川驛は明治35年設置、新居町驛は浜名湖埋立が手間取って明治41年完成、高塚、新所原両驛は昭和の建設である。
單線開通当時浜松驛から新橋驛まで約14時間を要し、複線になってから11時間に短縮され、更に大正6年以降順次速度が增した。
文久の頃まで法雲寺前に大榎があり地蔵尊が据えてあつた。俗に榎地蔵又は「願かけ地蔵」と人が呼んだ。後に撹内に安置された「水かけ地蔵」とは違う。
明治時代旭町の発展には木村角太郎、池谷良えい、武藤喜平治、中山定吉、新間金三郎、同勝太郎、鶴見市太郎、青山善一、小杉崎太郎、鈴木安太郎らが盡した。自笑亭初代山本六兵衛は浜松城主井上河内守に𥧄遇され一生を義侠に貫き浜松の一心太助と稱せられ二代六兵衛の妻かうは美貌と共に男勝りで鳴らした。
板屋町
浜松宿時代に木材の板屋が多くてこの町名となった。人出で賑う古刹法雲寺の酉の市は、文久2年に始めて開帳したが慶應祭事記に
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酉の市は武家が武運を開く鳥の町とて、毎年霜月酉の日の祭りにて、元々は大鳥の神に詣づるものなり。然るに浜松にては板屋町の鬼子母神をお酉様なりとて商家の老若縁起に詣づ。
福を集むるには年の市とて恵比須の神がよろし。
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とある、また寛保年代記に
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しも月酉の日に御城内にては、鷲明神にまうづることとなれり。そわ武運を守り給う御神なりとて、武家方みな參詣す。
この御神は天穂日命、その御子の天鳥舟命を祭れり天穂日命は土師連(はにしのむらじ)の遠つ祖なり。
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云々としてある。酉の市は正しくは「酉待」と言い、元来陰暦十一月のものであるが、今では陽暦で行う。酉の日は12日目に1度めぐつてくるから三度ある。
武運の守りが再転、三転して商人の福の紳となり信仰上からは恵比須の福と同じとなった。有名な法運寺通りの柳橋について曳馬拾遺は
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うまや路の東の法運寺の西田道に架けたる橋を柳橋という。この川岸に老ぬる柳ありしを、寛永の頃荒き水出でついに流れ失せける由、名のみ古わたるなり。
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と記している。また柳橋の上流にある姥ケ橋にも傳説が殘つている。本通りの大聖寺は明治16年以前は南能庵と稱し、弘治元年山門の西側に大きな辻堂が建つて、東海道往來の旅人に利便を與え、世に南能庵の「旅籠辻堂」と呼んだ。清水次郎長子分小政の墓がある。
今の広小路は明治29年から同33年までかかって、狭い灣曲道路を一直線に開通して板屋町新小路と呼んだ。その時の碑文に
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明治戌子之歳 兩京間鉄道成置 停車場於濱松 而自板屋町至此 迂路曲折 不便最甚 住民之大憂 各損私財 新開公道
凡六閲星霜竣工
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云々とある。
市川庄次郎、同正、同久平、同與市、山葉寅楠、山崎新助、加藤熊次郎、渥美久四郎.同卯平、永田ふく、大庭作平、加藤千之助、磯部伊平、夏目宗平、市川與平、清水藤兵衛、高瀬平吉、村井藤市、山下岩沢、池谷長太郎、金原兼三郎、小田佐一郎,田中大五郎、太田由平、河合磯平、澤木伊重、野末猪之劫などは知られた人。
日本楽器の前身山葉楽器製作所は、明治23年3月今の中通りの南側から廣小路へかけてオルガン製造工場が出來た。
新町
現在は中央2丁目に属す。
区画整理事業の手柄を記念する為に、地域史を消し去るのも困ったものだ。
浜松城下の東の入口で慶安元年戸數22戸の時にこの町名がついた。
西に上新町があつたので下新町とも呼ばれた。寛文6年85戸、賓暦5年に100戸に殖えて発展を辿り大正14年一部を割いて松江、板屋、北寺島の三ケ町に編入し、代りに馬込と田町の一部を加えた。
弘法大師や神明宮を祀る庚申堂があって、境内で大相撲、芝居、踊り、曲藝などの見世物が絶えず興行され、一時は浜松一の盛り場となり阿古屋餅というものが名物となった。
明治6年春に東京から女相撲一行がやつて來て、この庚申堂で長期間興行し人気をあつめたが、横綱の板額以下珍妙な名前の力士が大勢いて、男の客の飛入りを歓迎し、さあ來いと裸で男と取組み、好奇心から毎日大入満員を極めたが、風紀上宜敷くないと禁止されりした。
後ちに福地町明石潟の幕下昇進披露も庚申堂で興行された。
庚申堂前の旅人宿吉乃屋は國定忠次が泊ったのを初め、清水次部長、黒駒勝蔵、吃安など全國の貸元が泊り、一流渡世人の定宿として繁昌し、又文化年間には日本無双の繪師といわれた葛飾北齋が長期間滞在したことがある。
松江町境の南側には、慶應3年まで駕籠の会所があり、常に2-30丁の駕籠と多数の駕籠舁人足が詰めて上り下りの旅人の便を計っていた。
全國に知られた名醫足立東郊は野口村で生れたが、新町に開業して仁術を施した、その二男乾隈は内田氏を繼ぎ、後ち蘭醫学の大家になると共に政経学にも通じ、時の浜松城主水野越前守忠邦の天保改革を、苛酷極まれりと論難し[恥知らず」という題名の瓦版を発行し痛烈に批政を指摘した。その子孫は内田正である。
舊徳川旗本会田和保の二男次郎は、松城町舊井上藩重役山崎金重の養子となり、後ち特命全権公使をした。
庚申塚の堂守は伊勢白子藩士越川玄蕃の後家「なみ」で、新町小町と美貌をうたわれ、後年浜松一の物識り婆さんとして有名になつた。
足立衛、中村丈方、白本健次郎らは明治初年浜松の鬼才といわれた。他に川合清作、田中熊太郎、藤森彌七、中村佐平、長澤寛次郎、川合芳太郎、森下伊平、松本半藏、稲垣貞助などの人材があった。
明治39年庚申堂北裏に浜松蔬菜漬物廉賣市場が開市して榮え木戸青物市場に合併した。
庚申堂境内から夢告地蔵を掘出した騒ぎは大正7年のことであった。
夢告地蔵尊由来
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/history/history14/fudoki/yume.html
松江町
現在は中央2丁目に属す。
区画整理事業の手柄を記念する為に、地域史を消し去るのも困ったものだ。
舊馬込村の内、本馬込と稱した所で、明治22年浜松に編入後「サクラ町」となつたが、叟羅の松と唱えた老樹が、横臥して馬込川に突出ていて、室町時代足利義滿将軍の駒をとめ、以來駒止の松と傳え、その松と馬込川は江に通するので、大正14年地籍整理実施と共に、正式に松江町と改稱した。
永享4年堯孝僧正が
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誰が代にこうしておきなの松の根にきようあらわるる君の千歳を
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と詠み、うたた寝の巻は
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うしろは松原にて前には大きなる川のどかに流れたり。海いと近ければ港の浪、ここもとに聞えて汐のさす時はこの川水逆さまに流るるように見ゆる
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と書く。
馬込川は天龍川の本流であつたが、平安朝から室町末期に至る期間に、見付-浜松間で幾度びか河道が移動し東は本流化していまの大天龍、西は支派線の形ちで小天龍馬込川となつた。家康在城時代から文禄、慶長、元和にかけては、まだかなり大きな川で渡船で越していた。
天龍の名稱は永久3年の東鑑や、長元の更科日記に出ているが、この頃は三河の豊川を指したもの、後ち貞應2年の源光行海道記には天之中川とある。光行の子の親行は関東紀行に濱松を載せ「天龍の渡り」と記している。曳馬拾遺は
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鹿島という所より二筋に分れて流れけるに、西を大天龍という今の馬込川なり。東を小天龍という今の天龍川なり。中頃よりせき止めて小天龍へ水を一つに落しける故、この川おのすから涸れ果て今は僅かの川とのみなりにけり。
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と書き、績日本紀は
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霊亀元年五月遠江地震山崩、塞麁玉河水為之不流、経敷十日潰没敷地長上石田3郡民家170余區
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と惨狀を傳えている。郷土史に
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馬込の橋は太閤秀吉の木の下藤吉郎が頭陀寺の松下嘉兵衛と出会った由緒がある。
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と出ているが、その時代に馬込橋は架けてながった。
濱松代官が輕罪者を百叩きの刑に處した所は今の松江町十字路北寄である。百叩きは運尺町及び猿屋町で行った時代があって、猿屋町では扶持付の猿廻しが叩いた。
馬込川には魚が無盡藏で、明和の頃から漁船が浮び、天明から文化時代には釣の名所となり、馬込川上下流両岸堤防に明治末期まで大公望連が列をつくつた。
「江戸まで65里」の一里塚は明治18年「東京まで60里」の新標識に建替えられたが、それも明治41年に撤去された。林倉太郎、權田嘉六、小池彌三郎、藤田榮次郎、西尾清吉、大軒清作らはこの町の功勞者である。
北寺島町
明治6年3月浜松宿の行政區に入り同37年合併,大正14年5月寺島町と分れ北寺島町と命名した。雀森と稱して浜松駅機関區附近にお稲荷さんとも呼んだ「狐塚」があつた。
浜松凧合戦は明治年間しばしばこの雀森で擧行したが、畑を踏み荒したので立入りを斷わられた。狐塚について曳馬拾遺は
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この塚は寺島の畑の中の塚なり。この塚正徳元(1711)年の春あやしきしるしあるとて、詣で来る人數多ありて旗矛を立ちならべて事々しく祀りぬ。如何なるしるしが有りけん。
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と言い、又新町庚申堂記には
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寺島村の雀森に狐魅の妖ありて、ほしいままに怪をなし、木の葉を纏いて衣とし、人のがいこつをいたゞきてかつらとし貌をあらため媚を生ず。又尾を打ち叩きて火を出し馬込の川を船越までも走り、たゝりをなすことさらに止まず。天神地祇も功徳なし云々
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と恐ろしいことが書いてある。此所に狐がいたことは確かで、明治時代になつても見た人はいくらもある。大正7-8年の頃まで狐塚はあった。
一体狐というものは動物学上の食肉類の犬科に屬し犬や狼と同類である。体は普通の犬より小さく、口先は細くとがり、尾には長い毛がふさふさとしてしかも太い。性質は敏捷狡猾でメス、オスーつがいが穴居する。
大ていは夜のうちに出て鳥、野鼠など小動物を取って食う。色は銀、黒、赤茶、黄荼など色々あって胸と腹は白いのが多い。
狐は古くはキツと呼ばれ後ちにネの字がおまけについた、狐には三種類あって人をだます狐、人につく狐、人のためになる狐があるという。
人のためになる狐とはお稲荷さんのことで人をだますのは野狐、又人につくのはクダ狐というのであるらしい。
猟にだまされるということについては昔から議論が多いが、だまされるのは森や野原あるいは町の中でもさびしい所を、一人で通つて来て引っかかるのが普通で、いかなる場合も人なみよりいくらか智恵のたりない者がやられることに、相場がきまっていた。
明治末から大正へかけてどういうつもりか知らぬが、成子町の西道寺で大きな狐を二三疋飼っていて、これがお狐様だと説明
して人にも見せたことがある。
浜松には五社の稲荷を初め稲荷社が随所にあった。稲荷大神というのは倉稲魂命、猿田彦命、大宮女命等が祭神で、衣食住の祖神として農工商を守護し、神徳古来顕著として庶人の崇敬が厚かった。
イナリの名義は最初京都の伊奈利山に記ったという説と、稲刈りの転化、稲成の意、また倉稲ノ神を主神とするからと、諸説あって定説と認とむべきものがない「叱岐尼天」は印度の経典中にあり、はては狐を附会させて油揚げと結びつけたりしたものであろう。
北寺島町は浜松十大町の一つで本町、東町、西町に分れている、人物に太田源七、山内音次郎、鈴木角次郎、梅原藤作らがあつた。
龍禅寺町
初め市場村、後ち寺島八幡地と稱したが、千手観世音菩薩を本尊とする紀州高野山直末の古刹、眞言宗龍禅寺が古くからあるので天正年間から附近一帯を龍禅寺と稱え、安永から天保にかけてはさらに廣範囲に龍禅寺と呼ばれた。当時は今の砂山町十字路静岡銀行前から仁王門までが表參道、又國道松江町十字路以南は裏參道であった。
遠江風土記傅に「龍禅寺眞言宗在龍禅寺、稱旧市場村、寺田百石」同寺記には「此寺大同元年聖徳太子創建、自海中佛像出現、有寺中十坊、而守護七堂、有火災旧記焼失」とある、初め聖武天皇勅題所、後ち坂上田村麿東征の心願成就により七堂伽藍を寄進、徳川家康以来代々の祈願所として明治維新まで百石の朱印が附せられた。
近衛関白藤原晴嗣は後水足天皇の恩寵を蒙り、世に東永院龍山公ととなえ當時勢威並ぶ者がなかったが、元和年中病気治療のため上野國草津に赴いて京都に歸る途中、この龍禅寺護摩堂前の中庭に亭を建て一年余り留まっていた。その「亭」はさして宏大ではなかったが華麗を極めたという。徳川秀忠の姫君和子は入内して後水尾天皇の中宮となられたが、龍山公は浜松から和子姫上洛の行列に加はった。殘亭跡の南に松永蝸堂の”浮世には遠し花にも閑古鳥”の句碑があった。
世に龍禅寺の生観音、鴨江寺の死に観音といわれ、鴨江観音は春秋の彼岸に死んだ人を供養する參詣人で賑わい、龍禅寺観音はあらたかな御利益があるというので常時參詣人が引も切らなかったが、明治末期以後鴨江寺はますます繁盛し龍禅寺はピタリとさびれてしまった。
井上藩士堀川鼠來は早馬の組屋敷で生れ、能筆で俳句をよくし明け暮れ世の中に頓着せす、夏は丸裸で過した変人だが晩年龍禅寺の門前に移り”窓打つや秋を定むる夜の雨”と辞世の句を残してぽっくり死んだ。墓は名残町法林寺にあった。
この町は明治37年12月浜松市に編入となった、西山地區に熊野神社があり龍禅寺学校は明治6年に創設された。
鈴木政吉、齋藤重五郎、齋藤太代藏、山本安大郎、鈴木清吉、中山敬太郎、鈴木芳大部らは功勞者。
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