1997.7.1  

このところ「輸入住宅」が流行だという。わが国の住宅用の材木の7割ほどが輸入材であることを考えれば、わが国の住宅は四捨五入すれば全てが「輸入住宅」であるとも言える。 そういうことではなく、北米の「ツーバイフォー構造」でなくてはならないのだそうだ。 そういう構造技術の話であるならば、20年前にオープン化されているわけだから、今さら何を言うのだ、と言うことになる。

「この20年間、住宅建築技術者は何をしていたのだ。」とおっしゃる方もいた。円高差益還元で建材輸入を増やせば住宅価格が下がるという話もある。 しかし今までの例からすれば、輸入したところで出荷価格の5倍から10倍で売られるというのが通例である。何も商社だけが悪いわけでない。 国内生産の建材であっても端末価格は出荷価格の2倍から3倍になっているのだから、価格破壊が進行すれば円高差益も輸入経費とトントンであろう。 どうも問題は「輸入住宅」のほうにあるのではなく、わが国の住宅の方にあるような気がしてくる。

建設現場にはなぜ若者が少ないのだろう。「本物の洋風住宅」などという言い方がどうしてセールスポイントになるのだろう。 「まちづくり」と言う言葉が人々の口に上るようになって久しいのに、どうして自分の住んでいるところにはそんなことが起こらないのだろう。

こうした疑問を解くヒントとして、アメリカ合衆国・カナダといった北米大陸の街を形づくる住宅がどのように造られているか、を振り返るのも面白いかもしれない。

日本に較べて貧富の差の大きいアメリカ合衆国では、低所得者向け住宅供給で公営住宅が大きな役割を果たしてきた。これを持家に転換することで財政負担を軽減するための低所得者むけ持家制補助度「HOPE計画」に携わってきたアンドリュー・クオモ(前ニューヨーク市長の息子)が住宅都市開発局http://www.hud.gov/の長官に就任し、 公営住宅供給での地方分権に大ナタを振るう、ということで、「弱者切り捨てではないか」などという議論が盛んな様子が Architecture紙の97/08号に載っていた。

ちなみに米国では公営住宅から持家への転換を計ったのがHOPE計画だが、日本ではHousing on Proper Envilonment(地域型住宅計画)をHOPE計画と呼んだ。


  1. 「洋風住宅」とは何だろう
  2. 「ニュー・アーバニズム」の出現
  3. 巨大化とローコスト化
  4. 象徴としての住宅
  5. アメリカの近代住宅が若かった頃
  6. 流通システム、労務・管理コスト

1.「洋風住宅」とは何だろう

設計者として私が興味を持つのは例えば「洋風住宅」とは何だろう。 といった設問である。戦後の日本を代表する建築家の住宅デザインのエッセンスが、実はアメリカ合衆国の普通の住宅の規格であったりする事例に出会うとそうした思いが強い。 1960年代ころの住宅金融公庫の標準設計図集なんてのを見ると、なんだか進駐軍が持って来たプラン集を当時の我が国の状況に合わせて翻訳しているようにも見える。 それがそのころは「夢の近代住宅」としてあこがれの的だったのだ。どうもこの「近代住宅」「洋風住宅」の正体を確かめるために「輸入住宅」というのは手がかりになりそうだ。

1906年の、いわゆるサンフランシスコの大地震の死者は503人であったという。 それにもかかわらず強い記憶として残っているのは、このころの一連の出来事が「20世紀を形作って」いるように思えるからだ。 大地震から9年後の1915年には復興とパナマ運河の完成を祝う「パナマ・パシフィック博覧会」が開催された。

我が国では欧米を見て廻った渋沢栄一がハワードの「田園都市」に倣って田園調布の売り出しを行ったのが1923年、 同年の関東大震災に対するアメリカからの義援金を元に同潤会が設立され、都市集合住宅の建設が始まった。 同じ頃、「パナマ・パシフィック博覧会」の会場内にヘンリーフォードはT型の組み立て工場を作り、観客の前で自動車の大量生産を実演している。 東京の主として私鉄沿線に近代住宅が並び始める頃、アメリカ合衆国の住宅と街並には自動車の大衆化による大きな変化が始まっていた。 それまでは通り沿いに煉瓦造りの「町屋」が並び、馬車と鉄道が人々を運ぶ、という姿をしていたアメリカ人の理想の住宅は、自家用車の普及とともに次第に「郊外」へと拡散して行った。 それまで限られた人々のものであった自動車の登録台数は20年代の終には2,100万台となり、20世紀の始めには考えられなかったことであるが、一家に一台ということになってしまった。

「パナマ・パシフィック博覧会」の会場に作られたフォードの自動車組み立てライン。会期中に4,400台の完成車が出荷された。("SanFrancisco invites the World"より)

19世紀末の住宅プラン集から「町屋」の例。

"PALLISAER'S NEW COTTAGE HOMES AND DETAILS"
より
19世紀末の「社宅」(中央)。工場(左)の続きのようである。

"A CONCISE HISTORY OF AMERICAN ARCHITECTURE"
より

今も盛んに出版される住宅のスタイルブックの先駆けのようなものが手元にあるが、19世紀の終ごろのスタイルブックではまだかなりの部分を「町屋」風の住宅が占めている。

そして、それとは対照的に鉄道王などの一部の大富豪がヨーロッパ、特にイギリスのカントリーハウスになぞらえて、都心からはなれた場所に大規模住宅を建てているだけだったものが、 19世紀には「コテージ」などと呼ばれていた郊外小住宅が、1920年代になると住宅デザインの主流となっている。

そうした郊外住宅地の特徴に「カーブした道」も含まれるであろう。 オルムテッドの住宅地デザインに登場する牧歌的な道路のカーブは、それまでの直行する道路沿いの集合住宅を「住むための場所」でなく「生産のための施設」と感じさせるようになった。 自家用車は、それまで企業の敷地に隣接して建てられていた「町屋」風の「社宅」からも人々を解放し、郊外に拡散した低密度の住宅地を可能にした。

第一次世界大戦のころの「社宅」。「ヴィレッジ」とか「パーク」と名付けられている。("A CONCISE HISTORY OF AMERICAN ARCHITECTURE"より)

ハワードの「田園都市」では馬車と鉄道が主要な交通機関であり、それゆえ渋沢栄一の目にも東京の未来にふさわしいものと映ったのであろう。 これと対照的にアメリカの20世紀の住宅地は、ハワードの「田園都市」には無い自家用車の存在が、最大の特徴を作り出している。 会社に勤めて一日8時間の労働をし、自家用車で郊外住宅地の緩やかにカーブした道沿いの自宅に帰るという、 アメリカにおける20世紀的なライフスタイルが確立したのが「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれるサンフランシスコ大地震から1929年の大恐慌までの時期である。

1920年代の住宅プラン集の「郊外小住宅」の例。("500 SMALL HOUSES OF THE TWENTIES"より)

自動車による自由な移動はまた、それまでの限られた地域間交流を飛躍的に増大させ、西海岸と東海岸は日常生活の上でも一体のものとして感じられるようになった。 「パナマ・パシフィック博覧会」はそれまで未開地であった西海岸の時代の到来を告げるものでもあった。 F.L.ライトの「プレーリーハウス」という命名は、東海岸の都市部から郊外へ、西へ、という「時代の精神」を良く表わしている。 そうした郊外住宅の大量供給を可能にしたのは地場産の煉瓦とホワイト・オーク主体の東海岸の森ではなく、ダグラス・ファー、レッド・シーダー等の天然林を擁するノースウェスト地域と、 そこから切り出される材木を全国に運ぶ大陸横断鉄道だった。