2008.1.1
-幻の近代都市住宅
-幻の近代都市
-幻の近代住宅
-中心市街地に住む
-木の家に住む
-市中山居
-外壁のこと


浜松は1945年6月18日の空襲で中心市街地の大半を失いました。しかしその後の発展は目覚ましく,1950年代には市内にオートバイのブランドメーカーが20数社あったそうです。1949年には松城アパート、亀山アパート等の近代的な都市型集合住宅、1952年には市役所旧本館が建てられて,中心市街の近代化が始まりました。これらの建物からはこの時代の空気を良く感じ取ることが出来ました。

上の写真は1971年4月に浜松城から撮ったものです。左端に小さく尖っているのは松菱百貨店のネオン、右端の大きな建物がグランドホテルで左側に市営松城アパートが見えます。1962年から田町・伝馬町の共同ビルの建設が始まりましたが,例えば連尺付近はところどころ3階建てのビルが混じるものの,2階建ての商店が並んでいます。 東京オリンピックから大阪万博へとめまぐるしく開発の時代がやってくると、明治時代の人々が口にした「百年の計」などという言葉は忘れられて、何となく明るい未来が広がってゆきました。未来の浜松の「まちなみの景観」は市民にとっては漠然としたもので、1967年開店の遠鉄名店ビル、1971年の西武デパートといった商業施設が中心市街地の景観を作り上げていたようです。


商業施設の様に解りやすいものに比べて,まちなみ景観の基となる都市デザインはなかなか捉えるのが難しいものです。浜松市の都市計画は1925年に定められたのが最初で、旧大手門で直角に折れていた東海道から、北に道路を通して御城内を二分し,西側が住居地域、東側が商業地域、という中心市街地の基本的な骨格は現在でも変わっていません。田んぼを埋め立てて工業地帯、という姿も伺えます。終戦後の焼け跡からは市役所を基点として東西の通りが加えられ,天林寺の山を国道が突き抜けました。


その後の浜松は「大正60年には人口30万人で飽和状態に、」と想定された通り膨張を続け、中心市街地では斜面緑地に囲まれた住居地域が商業地域に浸食されつつある,というのが現在の姿でしょう。

「商業地域の方が建ぺい率・容積率が大きいので、土地価格が高くなる」という開発の時代の常識が、斜面緑地を消してゆき、1950年代に輝いていた「未来の都市景観」はますます幻となりつつあります。