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3.海外の歴史的まちなみ「我が王城」孔子以来の正統をもって任ずる韓国では住宅デザインから「都城の制」に至るまでが周の建築・都市計画の経典である「礼記」にもとづいてきっちりと護られてきました。京城は名前のとおり都としての城壁に囲まれています。田舎に入ると紀元前からの中国の伝統的な建物配置で造られた「書堂」と呼ばれる伝統的な教育施設を見ることが出来ました。 まちなみに関しても「古いものほど立派なものである」というのが中華文明における「正統」となっています。韓国の「書堂」建築も、その源流は中国の古典的住居形式にあります。 伝統的な中華文明のもとでは、都市も庶民生活の全てと同様、歴代皇帝の「私」に属するものでした。「我が王城」と呼ぶことの出来るのはひとり皇帝のみであり、庶民には「住んでいるところ」というものはあっても「我が街」という考え方はありませんでした。 また、中国文明の伝統では、人が集まって住むのは城壁で囲まれた高密度な場所です。こうしたまちなみの様子から「城市」という言葉が生まれたのでしょう。台湾の地方都市の郊外では、田んぼの真ん中に突然そうした高密度マンション群がそびえていました。どうも我々とは都市に対する感覚が違うようです。 「王様とその仲間達のための都市」からヨーロッパでもかって王様が沢山いた頃には、「都市」はそうした王様とその仲間のために造られていました。そうした都市の中心部には王様とその仲間のためにオペラ座のような劇場、雨に打たれずにショッピングが出来るアーケードといった「楽しみのための施設」なども造られました。 王宮だけでなく、王様の仲間達の住むところも各々の身分に応じて立派なものが造られました。パリも城壁で囲まれていて、いざというときには王様と仲間以外のものを閉め出せるようになっていました。それだけではありません、城壁の中の道もところどころに集中するように造り、城壁が破られた場合、そこに大砲を据えればどの方向から敵が来ても撃てるようにしました。左図の中央に見える「角地」はそのようにして出来たものです。 18世紀頃からヨーロッパでは工業化が始まりました。大量の労働者を必要とした当時の工業は、人々の住まいも産業設備の一部とみなすようになりました。「王様と仲間達」が豪華な暮しをするために作り出した都市ではなく、産業に付随する、という新しい形の「人々が集まってすむこと」は、様々な問題を引き起こしました。イギリスでは住宅の建築基準の始まりは建築・都市計画の分野からではなく、保健・福祉部門から法整備が進められました。 やがて第一次大戦後の「バブル」期にイギリスでは、それまでの農家建築でもなく、都市部の産業用集合住宅でもなく、伝統的な「王様と仲間達」の邸宅を模した戸建て住宅が産業化の進む都市近郊に現われました。 そうした戸建て都市住宅とは別に、「人々が集まって住むことに豊かさがある」という近代的な都市住宅の形を求める動きも現われました。緑に包まれた集合住宅を近代都市の理想の住まいと考えるものです。 |