1. 「まちなみ」とは
  2. 明治以前のまちなみ
  3. 海外の歴史的まちなみ
  4. 我が国の近代的まちなみ
  5. 北米における近代的まちづくり
  6. 参考図書

4.我が国の近代的まちなみ

江戸時代を通じて緩やかな成長を続けた東京の市街地は、明治20年代にはいると、工業化の進展と共に急速に拡大し始めました。内因としての東京への一局集中は現在も相変わらず手付かずのままで明治以降の膨張の延長上にあるようにも見えますが、この間に外的要因として大きな画期となる出来事が二つありました。言うまでもなく、最初は関東大震災、二つ目は第二次世界大戦からの復興です。明治以降幾度か都心部の全体的な改革案が考えられましたが、あまりにも大事業であるため、いずれも中途で終わりました。工業化の始まった東京は、かっての徳川幕府のお膝もとである江戸の町の構造には殆ど手が付かないままで、その周辺に新市街地が無秩序に膨張し続けるという状況下にありました。そうしたまちなみは路地裏に長屋が並び、通りに店が並ぶ、と言う江戸時代以来の伝統的なものだったと思われます。

板橋から白山まで

この間、浜松市の発展にとって大きな出来事は明治23(1891)年の東海道鉄道開通と、大正元(1912)年に国鉄浜松工場が開設されたことでしょう。鉄道によって近代国家日本の中枢に組み入れられた浜松市はそれ以後、工業都市としての歩みを続けています。


明治23年測量、大日本帝国陸地測量部1/20,000地形図より

放っておけばこのまま無秩序に膨張を続けるであろう東京の都市構造を御破産にして、新しい近代都市とするためには関東大震災は千載一遇のチャンスでもありました。震災後、財界の雄であった渋沢栄一は後の東急となる田園都市株式会社をひきいて田園調布の開発を実現しました。E.ハワードの提唱する「輝く田園都市」の構想を、私鉄駅を中心として実現したものです。



出典4より

都心部でも目覚ましい事業が展開されました。外国からの義援金を元に設立された「同潤会」(住宅都市整備公団の草分け)が都心部に次々と近代的な集合住宅を建設したのです。当時、時代の先端を行く都市住宅の理想形であったこれらの集合住宅は、「仕方がないから一緒にすむ」のではなく、「集合住宅が都市住宅の理想なのだ」という理念で貫かれています。土地柄にあっている、というより、土地柄を作り出した建物として表参道の同潤会アパートは今も多くの人々に親しまれています。しかし同じ頃に作られ、同じ「近代都市住宅」の輝きの感じられる代官山の同潤会アパートは取り壊し、再開発が決まったようです。



しかしこれらの建物の輝きを最後に、世界は暗い時代へと入って行きました。住宅どころではなく、暮しの全ては戦争目的の遂行のために捧げられました。そして関東大震災と同じように新しい都市建設のチャンスであった戦災復興は、国全体に全く余裕が残されていない、という遥かに深刻な状況のもとで進められなければなりませんでした。一局集中の無い新しい東京を造る、として想定された計画人口の350万人は「食べるため」に東京に殺到した圧倒的な人の群れに踏みつぶされてしまいました。焼けトタンのバラックから始まった戦災復興は豊かにあふれ出る「もの」を追いかける形で進み、気が付くといつしか「仕方が無いから住んでいる」という無表情な集合住宅で埋め尽くされる巨大都市となってしまいました。

その間、たとえばこの諏訪団地のように、「都市住宅とは何か」を問い直すようなプロジェクトも数限りなく行われています。

しかしこうした試みにもかかわらずすでに東京は

「核融合反応のレベルに達し、エネルギーを供給し続ければいつかは爆発するが、エネルギー供給を止めればすぐに爆発する。」

という状況にあるようです。

同潤会アパートが「近代都市住宅」の輝きをもって建てられた頃のように「土地柄」を問うこともなく都心への通勤時間で土地の価値が決められるようです。そしてそれが1時間以上であっても「通勤可能」でありさえすれば高密度な住宅地が開発されます。しかしそれは中国の「城市」の様に高密度居住の伝統をもったものではないようです。

東京の都心と同様焼け野原となった浜松でも混乱のなかから復興が始まりました。当時の質素な生活を偲ばせる市営住宅が今でも残されています(左図)しかし、こうした緊急避難的事業と同時に東京における同潤会アパートと同様近代的な都市住宅が建設されているのは驚くべきことです。市営松城アパート(中図)の完成は昭和24年でした。現在の公営集合住宅(右図)の先祖といってよいでしょう。旧市外を見下ろす松城の高台の端というロケーションがその頃のこの建物への憧れをよく感じさせてくれます。

その後も成長し続ける市街地はそれまで田園的な環境を保っていた周辺部を飲み込み続け、現在整備中の外環状線に迫っています。浜松周辺、特に西北部は高台の端が複雑に切れ込みながらうねるという多摩丘陵と似た構造をしています。東京に飲み込まれてしまった「トトロの森」の様な運命だけは何とか浜松では避けたいものです。