1 2 3 4 5 6 7 8 9 index

明治の田圃に江戸時代の市街地的地割りを重ねると、家康以前の浜松宿の様子が解ります。 西から下って来た東海道は秋葉灯篭の辺りで小天龍を渡り、「元濱松宿」に入ります。 そして八幡神社の辺りで再び別の小天龍を渡り、「船越」あるいは「新津」で大天龍の渡船につながっているのです。

この時代の土地利用は国の専管事項でした。江州佃村から武州江戸前に移住を命ぜられた漁民は、 移住に反対すると村全体を焼かれてしまい、涙ながらに東國へ引っ越したのだそうです。 後に利根川の流れを荒川筋から現在の流れに付け替えることになった家康公は、 浜松でも大天龍をそれまでの馬込川筋から東に付け替え、小天龍の流れを埋め立てて、 大手門から東に延びる東海道筋を作りました。「元濱松宿」の町人地は召し上げられて組屋敷、 米倉に利用されることになりました。「元濱松宿」の町人が新しい街道筋に移されるのも否応無しだったに違いありません。

資料:浜松市博物館特別展「浜松城のイメ−ジ」その他