大正7年に地積図集成図が刊行された頃、浜松の人口は急速に膨脹しました。 昭和2年には舗装道路が導入され計画では8間であったらしい6間道路が開通しています。 昭和11年2月11日は「2.26事件」の決起部隊が当初決行を予定していた日でもあり、 関東大震災以降重視された「都市防災」の考えは次第に「国防都市計画」へと変わって行きました。