追憶のあの歌

「冬のソナタ」このかた、韓流が日本に押し寄せています。日本では水戸の御老公が「葵の印篭」というのを持っていましたが、彼の地には「五馬牌」というものがあります。「葵の印篭」は大方拝領の私物でしょうが、「五馬牌」の方はきちんとした官制で、これを出されたら駅馬五疋を差し出さなくてはなりません。しかも「葵の印篭」はじいさんの持ち物ですが、「五馬牌」は美男子、しかも暗行御使なる国王の隠密が持っているのです。彼の地ではそれほどと思われなかったらしい「冬のソナタ」が日本でブレークして、羽田空港管理当局まで「ヨン様」に「五馬牌」してしまったのが面白い。

「冬のソナタ」は美男美女の悲恋に姑がからむという古典的出だしだったので、いくら韓国でも途中から女が自立した近代的なジェンダーと化して大ブレークするのかしらんと見ていたら、昭和30-40年代の少女漫画同様、御涙頂戴しておしまいだったので拍子抜けしてしまいました。日本にとっては「失われた10 年」であった1990年代の間に韓国では急速な近代化が進み、液晶パネル、メモリといった分野では日本を追いこしてしまったのですが、国際競争にさらされる電子機器メーカーに較べると、人々の意識は家族が経済活動の単位であった頃のしきたりから抜け出るのに時間が掛かるのでしょう。

日本の1960年代が「所得倍増の10年」であったと同様、韓国の1990年代は「所得倍増の10年」であったようお見受けします。わが国における産業近代化のノリが、個人を家族・地域といった儒教的責任から解放してくれる、植木等の「スーダラ節」といった無責任ソングだったことが知られていますが、韓国におけるそれは何なのでしょう。振り返ると植木等の「等」という名前も、「理性を持った個人」のみが歴史の歩みを実践できる、という西欧型合理主義的、民主主義的な「平等」とは異なる地平で、日本が近代産業を担う大衆を作り出したことを象徴しているような感じもします。自ら儒教の宗家を以って任ずる韓国人が産業近代化に対応する大衆となるためのノリは何だったのでしょう。

「冬のソナタ」ではほとんどの場面で洋風ミュージックが使われていた様です。東京で行けば渋谷・代官山・自由が丘と東急線沿いっぽい、ソウルでいけば梨泰院・漢南っぽいノリでしょう。ところが一昔前までの静大工学部への留学生諸君等は、当時のイ・スニのニューミュージック系など鼻で笑って「やっぱ、ポンチャクですね。」と言い切っていました。

「トロット」とも呼ばれる「ポンチャク」は古今の名曲にツービートのパーカッションをかぶせた「ディスコサウンドのようなもの」であるようです。一昔前にはこれがカセットにメドレーで入っていました。高級なステレオセットの前に座ってソファーに身を沈めてじっくり聞くというたぐいのものではなく、できれば乾電池電源のプレヤーで、酔っ払いながら聞く音楽なのです。それも一人ではなく、大勢で酒盛りの時に聞くための音楽として発達してきたもののようです。原曲となっている戦前から朝鮮戦争期の演歌が持つ「恨」の味わいなんてものは横においといて、知っているもの同志、大声を上げて歌えばよろしいのであります。2ビートのパーカッションは同じ調子で1時間やそこらは続いているので、知らない曲があっても何となくリズムに併せて体を動かしておれば、またすぐに声を張り上げるべき曲が出てくる仕掛けになっています。

集団酩酊状態を作り出す仕掛けとしては素晴しいシステムではありませんか。歌そのものに酔うのではなく、「歌の輪」「踊の輪」といった、一体的感情に支配される「場」に包み込まれる快感です。そこは「理性を持った個人」などという西洋近代史を作り上げた世迷いごとの立ち入る隙はなく、限りなく均質な空間と限りなく均質な時間の続く陶酔の世界です。「ポンチャク」という音楽流通形態が発達したのは、おそらくカセットプレヤーが普及するのと同時であったものと思われます。そしてそれはまた韓国が奇蹟の近代化を遂げた時期、日本でいえば植木等が「スーダラ節」を歌った時代とも一致するのではないでしょうか。60年代、70年代を通して常に失速を喧伝された韓国の産業近代化が、その期待を見事に裏切ってテイクオフを果たした裏には、民族伝統である「恨」と、近代産業の要求する均質性を直結する秘密兵器として「ポンチャク」があったのではないでしょうか。「ポンチャク」は実は近代化のためのミュージック・ドラッグだったのです。

試しに1950年代の名曲「別れの釜山停車場」(胡童児 作詞/朴是春 作曲)を聞いてみましょう。おそらく1970年代の録音と思われるオリジナルっぽいやつは今聞くと「倭色歌謡」と言ってもよいと思います。「古賀政男の音楽ルーツは韓国にあり」などとも言われましたが、その韓国は音楽産業までが総督府下に組み込まれた韓国であって、独立国である大韓民国ではありません。発声法も藤山一郎と同様、直立不動型です。(南仁樹:唄/1993年頃、木浦の夜店の屋台で買ったテープに入っていたもの。)

それが1990年代の「ポンチャク」ではこうなってしまいます。原曲に歌われた朝鮮戦争という巨大な「恨」も、その悲劇を可能にした元凶とも言える「日帝時代」も高度経済成長にひた走る若き大衆のノリに踏みつぶされてしまっているかのようです。(キムジュンギュ・ヒョンミレ:唄/観光ナドゥリ名コンビ/セジンレコード/1991)


「別れの釜山停車場」の朴是春を含め、1970年代までの「韓国演歌」の作者には戦前活躍した人々が多く含まれています。朴是春は1938年に李扶風の作詞に作曲して「哀愁の小夜曲」という大ヒットをとばしているのですが、これを聞いていて不思議だったのは印を付けた部分がどうしても「〜今宵〜」ときこえてしまうことでした。

운다고 옛사랑이 오리오마는 눈물로 달래 보는 구슬픈 이 밤
고요히 창을 열고 별빛을 보면 그 누가 불어 주나 휘파람 소리

試しに聞いてみて下さい。(南仁樹:唄/1993年頃、木浦の夜店の屋台で買ったテープに入っていたもの。)

ところが朴燦鎬さんの「韓国歌謡史」(晶文社1987)を読んでみて疑問が解けました。何とこの曲は同じ年に朴是春自身の作詞で日本語版が出ています。そして日本語版の歌詞を見ると、

青い月夜のこの道で 歌う涙のセレナーデ
今宵夢見る青春の 悲しい悲しい薔薇の花

とあり、始めからこの歌がバイリンガルに作られていることが分ります。

「別れの釜山停車場」にうたわれた朝鮮戦争の頃の大統領は、アメリカ帰りのイ・パクサこと李承晩さんで、戦前からの反日派でした。そして近代国家としての大韓民国の基礎づくりに、大きく貢献した朴正熙さんはれっきとした元日本人、元満州国陸軍高木正雄少尉です。大統領に就任したのは1963年であり、大日本帝国の崩壊から18年目ですから、国民の大半も元日本人です。朴正熙さんの時代は独立国の国民として、元日本人という穢れを振い落とすためには「反日」が国是でなくてはならなかった時代だと思われます。

ところが政治よりずっと血液に近いところで受け止められる、演歌の世界では、「酒は涙かため息か」という時代、内地でも軍国主義の強まった時代である1930年代から続く「シカタガナイ」という思いが、独立後も歌い続けられて来たのではないでしょうか。朴正熙さんの時代に作られた「カスバの女」を、私の親爺も一杯機嫌で口ずさんでいたものですが、これも久我山明こと孫牧人の作品です。そして日本が「シカタガナイ」から植木等歌うところの「スーダラ節」に乗って「所得倍増」の10年へと進んでからも、韓国ではしばらく軍事政権下の「シカタガナイ」という時代が続いていました。

「冬のソナタ」の主人公たちはその頃に生まれた子供達、ということになるでしょうが、彼等の幼稚園時代に朴正熙さんが暗殺され、軍事政権の強要する「シカタガナイ」が、光州市の全南道庁前で血塗られた最後を遂げると、時代は転がり始めました。1880年に2,000ドルちょっとだった国民所得は2003年には17,700ドルになり「所得倍増」どころではありません。オリンピックの頃にはカセットテープに入って、夜店の屋台で売っていた「ポンチャク」もCDになっているようであります。最早酒の勢いで「ポンチャク」を歌う若者には、元歌に込められた「恨」が分らなくなりつつあるのでしょう。「冬のソナタ」の持つ「陰り」には子供達には分らない親の世代の「恨」、19世紀末から1980年代まで長く尾を引いた、「シカタガナイ」という想いの物語り、という側面もあるように思えます。

さてこの「ポンチャク」のノリは何だろうと考えてみると、参考になるのはサッカーなどで登場するカネ・タイコの一団であります。カネとタイコで集団酩酊状態をつくり出す、というのは伝統音楽でいう「農楽」のノリではないかというのが私見です。してみると「ポンチャク」というのは、演歌すなわち植民地時代の「シカタガナイ」歌謡の「農楽化」ということになります。韓国における産業近代化の秘密兵器は、実は伝統民俗音楽であったのではないかと。

ところで日本を代表する伝統芸能である能楽の謡本では、リズムをつけるところには、物語る部分と区別するために「ノル」と記されています。能楽が発達した時代、千利休などにとって韓国は憧れの先進国であったわけで、謡本でリズムをつけるところに「ノル」と記すのも彼の地から来たものかも知れません。それが時代が下がるにつれてリズミカルなことを「ノリ」「ノル」と呼ぶようになったとは考えられないでしょうか。