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高台の先端に城を築く


大手門の前で街道が直角に曲がる


鉄道は外堀沿いに城の裏を廻って高台に登ってゆく

浜松の地形と似たこのような地形は、別の場所でも見ることが出来ます。図の中央にやはり手のひらを広げたように見える地形がそうです。敵を防ぐ城の構えを築づくには適した地形です。右に川、手前に海、があります。

そして東海道を左から引き、正面、霊峰富士に向かって大手門を開いて造られたのが江戸城だということです。江戸城はその地形を利用するために、古来の「四神相応の地」としての方向を富士山に合わせて約112度振っているということで、そのために本来の都城の法に拠れば南から北に向かうべきところを、大手門から本丸に向かって西に進むようになっています。これを本来の都市計画の向きに合わせて、西を上にしてみると、その地形が、浜松城の地形に実に良く似ていることが分かります。

徳川幕府が征夷大将軍として関東平定に当たり、その本拠地を定めるのに、「四神相応」の地であると同時に、実際の戦闘で立派にその役割を果たす地形として、出世城と言われる浜松城の地形を念頭においていたことも充分に想像できるのではないでしょうか。江戸っ子の先祖は家康の江戸開府に従った、三河、遠江、駿河三ケ国の職人であるとはよく言われることであり、実際に江戸の下町の言葉は浜松近辺の方言にも似ています。ところがそれだけではなく、江戸の地形さえも、実は、浜松の地形をもとに探し出したものだとも考えられるのです。

そう考えて二つの地図を見比べてみると、四谷見附の城門が亀山の木戸、後の外堀となる平川が新川、平河町、麹町の屋敷町が広沢のあたりという具合に、あちこちに似通った地形があるのに気がつきます。家康は浜松の街づくりを通して「江戸の練習」をしていた、と言っても良いでしょう。

西洋における芸術が、人間の手によって作り出されたもの=ART、であるのに対して我が国では、お茶室においてもその庭は「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」といった豊かな自然の景観を思い起こさせるもの、「市中山居の体」が理想的だと考えられていました。これと同様に都市の計画においても、西洋の都市が「造り上げるもの」であり、人間の営為を象徴し、都市機能を合理的に収容することが、その主要な目的だとされましたが、我が国では、そのままで都城にふさわしい相を持った地形を「見つけだす」ことに重要な意味が持たれていたことがうかがえます。人工的な景観を作り出す以前に、自然の景観によってその都市の基本となる風格が与えられると考え、自然の地形の優れたものを見付け出し、利用することが一つの理想だと考えられていたのではないでしょうか。

家康は治水についても浜松で「江戸の練習」をしています。馬込川をはるか上流で切って現在の天竜川に落とす、というやり方で隅田川を流れていた利根川を上流で切って現在の利根川に移しているのがそれです。

家康による江戸開府の時だけでなく、例えば外堀を東から北に回って城の裏に出、亀山の木戸(四谷見附)を潜ると右に曲がり、姫(青梅)街道と館山寺(甲州)街道の追分(新宿)のあたりで再び右に曲がって街道を横切ると左に曲がり、そのまま真っ直ぐに延びるという、かっての奥山線が三方原台地に登って行く様子が、東京における国電の中央線とそっくりなのを見ると、明治以降にもまだこのような伝統的な「構え」、あるいは家相と同様な「都相」から都市の計画を考えるというやり方があったのではないかとも思われてきます。



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