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No.22□浜松の道は解りにくい□急激な都市化 □家康による「四神相応の地」 □武蔵の国で浜松の地形を探す |
社団法人 静岡県建築士会会員 古山惠一郎 〒430 浜松市元城町109-12 電話 053-453-0693, fax 053-453-0698 e-mail:.ask@tcp-ip.or.jp http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/
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| ![]() 鉄道は緩やかなカーブで平地を 城の大手門で東海道が直角に曲がります。 三方原大地の先端である高台に浜松城があります。
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| 江戸の練習「浜松の道は解りにくい。」と他所から来た人に言われることが時々あります。長年住み慣れていると、取り立てて感じないのですが、言われてみると、そんなものかなという気持ちにもなります。 江戸時代を通じて、城下町と、宿場町という、固定した都市機能を守り続けていた浜松にも、明治と共に文明開化の波がやって来ました。新しい産業がつぎつぎと起こって次第にそれが市内に集中し、都市機能は爆発的に膨張しました。そして、御城下、宿場町として、木戸の内側にまとまっていた浜松宿は、やがて町村合併により、近郊のそれぞれに独立した古い歴史を持つ村々を取り込むと、かっての浜松藩と言ってもよい現在の浜松市になりました。 江戸時代の江戸城下の人口がほぼ100万人なのに対して、現在の東京都の人口を1,200万人だとすれば、その比は12倍になります。これに対して浜松の旧浜松宿の約2万人に対する旧市域の64万人でも32倍に達することで、その都市化のはげしかったことが伺えます。 こうした浜松のこれまでの都市化の激しさが、浜松の道を解りにくくさせているひとつの原因でしょう。けれども合理的な経済活動の魅力以上の、心からの「いとおしさ」を感じさせる様々な都市の魅力の一番底には、例えば奥山線を初めとする軽便鉄道の様に、かっては人々の暮らしの一部を形作っていた、街の長い歴史の中で培われ、市民に親しまれてきたもの、時代を越えて受け継がれて行くようなものがあるはずだと思います。そうした浜松の街並を作り上げて来たものを、誰にでも一目で解るように出来れば浜松の街の「解りにくさ」を魅力に変えることができるのではないでしょうか。 浜松の道をわかりにくくしているもう一つの原因は、平野と高台という高さの違う二つの平地の間の坂が市街地の中心を作っているという地形にあるでしょう。 浜松は掛川の様に城だけが城山にあって、それ以外の街は平らに広がっているのではありません。また、静岡市に見られるように、平地と急な斜面だけから成っていて、どってりとしたひとかたまりの山が緑地となり、それを囲む平坦な市街地と、はっきりと分れているのでもありません。こまやかな起伏に富んだ谷筋と尾根筋が、高台の縁に沿って複雑に入り組みながら続いています。この手のひらを伏せたような起伏が、浜松の変化に富んだ豊かな都市景観を作り出すもとともなり、同時に車を運転していても、谷あいに下がると向こうの尾根を越えたらどっちに道が続いているかわからないという複雑さ、分かりにくさの原因を作り出しています。 しかし、地形は、都市の景観を作り出すもっとも重要な要素の一つであり、浜松市の歴史の中で、もっとも古くから変わらずに今に至っているものです。この地形の上で最初に大掛かりな街づくりが行われたのは徳川家康の浜松入城でした。こうした意味から浜松市の都市景観にかかわる地形の影響を少し考えてみようと思います。 家康の浜松城は三方原台地の東南のはずれにあります。地図は現在の地図から標高10mと20mの等高線を拾ってみたものですが、これを見ると、現在の鹿谷町のあたりで細くくびれた地形をしている様子がよくわかります。南側では中山町と鴨江四丁目のあたりで西と東から谷が深く入り込んでいます。この二つの地形は、浜松城築城以降に造成工事が行なわれて、城の外堀のような形が整えられたことがあるかも知れませんが、それにしても、そのもとになったものはその場所の自然の地形だと思われます。 平城京、平安京を初めとして、当時の地計画の原理は、中国からもたらされた、陰陽学に基づいていました。城あるいは都を築づくべき所として「四神相応の地」がふさわしいとされ、東に「青竜」の神の宿る川、南に「朱雀」の神の宿る池か海、西に「白虎」の神が宿る道、北に「玄武」の神の宿る山が求められました。 遠州地方では、古くからの農村は、ほとんどが平野の中に島のように浮かんでいるか、雄踏街道沿いに見られるように、山の端の南向きの斜面に集落を造っていました。これに対して浜松城は、東は天竜川越しに東国をにらみ、南には果てしない太平洋が広がり、東海道は成子の木戸を出ると都に向かって西に延び、北には徳川の本拠である尾張の国に続く山並を望むことが出来ます。
また戦のための城を造るにも、この一帯は適していました。前記の犀ケ崖と、鹿谷町の谷と谷が両側に迫ったあたりに木戸を造ることによって後ろの守りが硬く、じっくりと東をにらむのに良い場所です。天竜川を挟んで、磐田台地まで広がる広大な川原は、行く筋もの流れが複雑に絡み合って、土地感のない軍勢が踏み込めば、大変な難儀を余儀なくさせられたでしょう。この地が都城を築づくのにふさわしい「四神相応の地」の地であると同時に、目前の東国平定の大事業を達成するのに充分堅固な本拠地を築づくことが出来るところとして選ばれたであろう事は容易に想像できます。こうした地形を利用して城が造られると、その周りには、やがて街が造られて行きました。
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