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No.19

□地区計画のお手伝い
□都市計画法の大転回
□マンション反対では、、、
□未来の匂い
社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
〒430 浜松市元城町109-12
電話 053-453-0693, fax 053-453-0698
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市役所の都市計画制度のページ

用途地域 
地区計画
景観形成地区

「浜松まちづくりセンター」の手伝い、というわけで山手町と蜆塚一丁目の「地区計画」策定におつきあいしました。昭和55年の都市計画法の改正で「地区計画」制度が定められましたが、その後の用途地区の細分化、あるいは調整区域内での開発行為の緩和を「地区計画」を前提と考えるという流れにそったもののようです。

地元住民が協議によって地区計画を立案し、県の同意のもとに浜松市の都市計画審議会がこれを都市計画決定する。例えば建築基準法の用途地域等の規制よりも地区計画の定めが上位に位置する。その地区のまちづくりの方針が、開発あるいは保全を目指すものであればそれらを保証する条例を浜松市が定める。といったものが全体の流れということになるようです。

地区計画の立案は市・県が都市計画として決定する上で妥当なものでなければなりません。そのために住民に専門的な援助を提供する、というのが「浜松まちづくりセンター」の役割で、先日は士会会員などアドバイザー・コンサルタント登録をした方々との研究会がもたれました。大正8年に作られた都市計画法では都市計画は内務大臣が定める、とされてきたものが県知事から市長へと下りてきたわけですが、住民自身が立案してそれを市長が決定する、というスタイルはこれまでの都市計画制度を180度ひっくりかえしたもの、といってもよいでしょう。米国でコミュニテイーデザイン、ネイバイフッドデザインと呼ばれている仕組みに似ているようでもあります。米国の市役所をのぞくと、どこでもそうした制度を通したまちづくりの支援体制が整えられていて、まちづくりの為の資料を「どっさり」貰える仕組みになっています。

ところで山手町でも蜆塚一丁目でもまちづくりを考えるきっかけはマンションでした。1990年代以降の土地価格急上昇を受けて、最早戸建て住宅の時代ではない、という意識層にマンションが受け入れられたものと思われます。立地を求めたマンションが向かった敷地のひとつが斜面緑地でした。

浜松市の地形は台地と低地とその間の緑地からなっています。市街地中心部のまとまった緑地はこうした斜面緑地だといっても良いでしょう。田んぼを主体とした低地に続いて畑作灌漑が進むにつれて開発された台地に挟まれて、長く取り残されていたのが斜面緑地だとも言えます。農地が手厚い保護を受けているのに対して、開発する人がいれば大歓迎であったともいうことが出来ます。低層開発では造成費を吸収しきれない斜面でも、高層化することによって採算がとれます。斜面立地を利用して眺望を売り物にすることも出来ます。そうした背景から市内のあちこちに斜面を開発して建てられるマンションが目につくようになりました。

今までそこに緑があるのが当たり前、として見過ごされてきて、緑地を積極的に残すために斜面を守る、ということが充分でなかった、ということも今なら言えますが、斜面を逆手にとって快適な居住空間の創出、というのがバブル期の我々の意識ではなかったかと思います。

山手町は昭和46年に分譲を開始した新しい住宅地です。1970の大阪万博を頂点とする、我が国未来が明るかった頃を代表する住宅街といっても良いでしょう。そうした我々の若かった頃の「夢の住宅街」の背景から緑が失われてゆくのは何とかならないものか、とも考えていたので、「山手町のまちづくり」は面白そうだな、と思ったのですが、住民の方々にしてみれば課題は「うちの前に高層マンションが建てられて日当たりが悪くなったらどうしよう。」という切羽詰まった地域エゴともいわれるものでした。

「高層マンション反対」では都市計画に取り込むこともならず、もっと将来を見据えた地区計画としてまちづくり全般をお考えになったら、というのが市役所のスタンスだったと思います。地区計画の素案は出来たのですが、都市計画行政側と住民サイドのずれは完全にはなくなっていないと思います。