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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.2

□地名からゲニウス・ロキを探る
□地形に残る家康以前の浜松
□元浜・船越・新津
□東街区の地霊(ゲニウス・ロキ)






図1

浜松市博物館特別展「浜松城のイメ−ジ」(1995)より



図2

大日本帝國陸地測量部
明治23年測量二万分一地形圖「濱松」より



図3



図4



図5



図6



図7



図8

「元浜」?

先年、平良敬一さんが来浜の折、「ゲニウス・ロキ」と言う書物に言及されていました。 ゲニウス=霊、ロキ=場所と言う意味だそうで、ヨ−ロッパの都市が形作られて来た、 或いは現在の形の元となっているのが、都市の特定の場所に宿るものとして意識されている「霊」に由来することが多い、と言うお話でした。 ゲニウス・ロキが、ある場所に対する人々の意識の、 長い時間を掛けた積み重なり、と考えれば、そうした地霊を捕らえるため、地名も有力な手掛ではないでしょうか。

市内には元浜町がありますが、浜松市博物館で開催された「浜松城のイメ−ジ」展では、元浜町が「元浜松宿」に由来する、という説が紹介されていました。

図1は大正7年刊行の地積図修正図から江戸時代の武家地割り、町家地割りの特徴を持つものを取り出したものです。 田町分器稲荷から八幡神社に掛けては町家として開発され、後に武家地に編入されたらしい地割が残っています。 これがおそらくは徳川家康入城以前の浜松宿であろう。ということが浜松城のイメ−ジの一つとして紹介されていました。

これをもう少し現在の我々にも解るように深追いしてみます。図2は明治23年の地形図です。 ここから当時の水田を拾うと図3になります。水田は地面のかすかな傾斜を最大限に利用して作られる為、 微地形を見るのには有効な手掛かりでは無いでしょうか。また堀留運河が人力で掘られたように、 明治のこの頃まで土木工事は殆どが人力に頼ったものである為、大規模な土地の形質の変更は限られています。 そこで図3から人工的な地形らしいものを除いてより自然な形をイメ−ジしてみたのが図4です。

天保堤と呼ばれるように家康入城時には、それまで曵馬川を含み幾筋もの支流を流れていた天竜川が、 浜北市於呂付近で塞き止められて現在の天竜川が定まった、 とされています。現在の浜松市中心部も何本かの川筋によって形作られていたことが図4からは解ります。

家康は江戸入府時にも、利根川の流れをそれまでの荒川筋から現在の利根川に付け替えました。 渡良瀬川流域は、洪水時に利根川の水が元利根川筋に流れ込み、江戸の町が危険にさらされることを防ぐ為の、 遊水地としての運命をこの時から背負わされることになったそうです。

してみると家康は川替えの「練習」を浜松でやっていた、と考えても良いでしょう。 そして天竜川の川替えと同時に行なわれたであろう、 中心市街地の造成工事が図3と図4の違いだと考えられます。 これを拡大すると図5となりますが、玄黙口内外の米倉の整備と並んで大きなものが、 元浜松宿の地上げ-武家地転用と東海道新道の整備、町家の新道への張り付けです。

家康入城以前の元浜松宿は地形に良く馴染んだ自然防災的なものでしたが、 大手門前から木戸へ続く家康の「直線東海道」は、東から街道を上る際の、 大手門のパ−スペクティブを主眼にした、微地形とは無関係なもので、 元々の河川敷を埋め立てて作られており、地耐力の面からも、洪水時の安全性からも、さぞ不安なものであっただろうと思われます。

佃煮で有名な佃島は、家康の江戸入府時に江州佃村から移住させられたもので、 「知らん所で漁師は出来ん」と絶対反対だったものが、家康の命で村に火を掛けられ、泣く泣く江戸に下ったもの、 と言われますから、元浜から新町へ、なら「まだまし」というところでしょうか。

城下町整備を除いた図4に図1の「元浜松宿」はうまく重ねることが出来、図6の様に家康入城以前の浜松の姿が良く解ります。 西から下って来た東海道は「天竜川」の流れに突き当たると左に折れ、現在の元城町東照宮である古城を眺めつつビオラ田町の辺りで流れを渡り、分器稲荷に詣でて宿場に入ります。

八幡様に願を掛けて宿場を出ると、渡船の御用を預かる「船越」あるいは「新しい船着き場=新津」から船に乗って網の目の様に流れる天竜川を船で渡る、 というものです。

明治23年には図1に見る通り、東海道鉄道が開通し、浜松市は近代都市としての道をひた走ります。 この時の浜松駅は最初、平田西見寺裏に予定されていたものが、

「そんなものが出来たら、うるさくて仕方が無い、異人がうろついたんでは、 旅人が怖がって旅篭に泊まらなくなってしまうから止めてくれ。」

という訳で街並から離れた法雲寺裏に決まったそうです。 しかし鉄道が開通し、汽車が走り初めてからの産業の移り変わりは目を見張るものでした。 日本形染だったか、帝国製帽だったかが浜松に主力工場を置くことを決めた理由に

「気候温暖で労働争議など起きそうに無いから。」
というのがあったそうです。 「十万石といっても、町の様子は八万石程度」とのんびりした宿場町であった浜松は、急速に近代産業の波に飲み込まれて行きました。 東海道鉄道の工場設置が議会に計られると、 「警官隊の取締を避け、近隣の駅から三々五々に分かれて汽車に乗り込んだ誓願隊」が数百人規模で国会を取り巻いて気勢を揚げた。のだそうです。(誘致賛成の誓願です。) 工場が出来ると「彫りモンの一つも入っていねえ様じゃ職人とは言えねェ。」という、江戸下町の職人衆が新橋工場などから大挙移って来ました。 現在の浜松人の源流の一つはこの辺りでは無いでしょうか。

100年後の姿を図8から見ると、東街区、静岡県合同庁舎から西北の再開発区域が、元浜松宿の南半分に当ることが解ります。 今回の整備で姿を消しましたが、元浜松宿の東を流れていた川は八幡排水路と名前を変え、 近代浜松を代表する繊維産業にとって重要な資源となっていました。戦災で焼け野原になっても、あっという間に息を吹き返し、 「区画整理より商売が先」とばかり50年間を駆け抜けて来たのが、この東街区一帯でもあります。

「近代産業」と言えば鉄鋼・造船といった重厚長大型産業を思い浮かべますが、 「昭和初期の輸出の2/3が絹糸・絹布であった」と言われる通り、重厚長大型産業の為の外資を稼ぎ出したのは、 繊維を中心とした「路地裏産業」だったのです。

東街区の区画整理によって、近代の浜松を支えて来た沢山の路地が姿を消しました。 事業の推進に伴って生じた様々な曲折は、近代浜松を支えて来た路地の歴史が、敬意を持って扱われたか、という問いでもあったかと思います。 計画デザインが近代的な優れたものであったとしても、それが何処かで知らないうちに準備されたものあれば、 「こうして下さい」と言われた方は「町人はどけ」という家康入城の折の、浜松宿が元浜になった時の経緯を思い浮かべざるを得なかったのです。

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