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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.11

□まちづくりの共通の土俵がない
□街の歴史をイメージに
□「地元発注・地元設計・地元施工」から「何処にでもある見知らぬ街」へ





















東海道500年とはいうものの、東海道浜松宿の中心市街地の、現在の姿を作り上げているのは、第二次世界大戦で焼け野原になってからの50年と言っても良いでしょう。ところが「去るもの日に疎し」というわけで、この50年間がどうであったかというとなかなかイメージしにくいのですね。 先年、東街区のシンボルロードの市民提案をしよう、という話があった時にも例えば市民、住民、地権者、行政、建築士の間で、なかなか話が進まない、という経験をしました。街の姿が現在のようなものになった経緯の捕らえ方がそれぞれに違っていて、まちづくりの為の共通の土俵が見つからない、というのがその時の印象でした。ところが建築士は建物の形を作るのが業務ですから、「街の歴史」といっても、目に見えるイメージになっていないとどうしても落ち着きません。

そんなわけで中心市街地のこれまで50年間を3dアニメーションにしてみようと思い立ちました。幸い図書館には昭和32年からの1/2,500都市計画基本図画が保存されていますのでこれを使うことができました。また図書館には中心部のみで、駅前部分が欠けているものの、昭和26年発行の浜松市住宅地図というものがあり、戦争直後の街の様子が分かります。これらの地図から平面図をトレースし、高さを適宜想定して3dに立ち上げたのがここに並べた図です。各年代ごとにぐるりと360度廻して見たアニメーションにしました。

昭和26年の住宅地図ではまだ焼跡が空き地として残っています。良く見ると松菱、静銀、電話局などとともに、旧東海道沿いなどのあちこちに「堅牢建物」があります。おそらく戦災でも火が入らなかった蔵造りではないかと思われます。昭和26年の住宅地図はおそらく戦災復興の道路計画図を参照しているらしく、あちこちで都市計画道路の工事が進んでいる様子が表されています。

昭和32年刊行の都市計画基本図は縮尺1/3,000で図面の基線も南北を取っておらず、現在のものとは様子が違います。この図では田町の旧東海道南側の耐火建築の前に仮店舗らしいものが拡幅前の通り沿いに並んでいる様子が記載されています。

昭和38年のにはすでに連尺交差点北東角の耐火ビルが竣工しています。そしてこの頃から現在に至るまで浜松の中心市街地は高層化、高密度化を続けてきたことが分かります。

昭和50年代以降では古い建物が取り壊されて「空き地」ならぬ駐車場となり、やがてそこに立体駐車場が建てられる、という姿があちこちで目に着きます。駐車場自体では業務が行われるわけではありませんから、中心市街地の空洞化がこの頃から始まっているとも考えられます。我国でGNPに対する製造業の割合いが最も高かったのは1960年代だったとのことで、工業都市の性格の強い浜松にとっても深刻なことだと思います。

もうひとつ気付いたのは新幹線の開通するころまでは「地元発注・地元設計・地元施工」が主流だった中心市街地の形成が次第に「何処かで発注・何処かで設計・何処かで施工」に変わってきているらしいことです。「地元発注・地元設計・地元施工」が主流だった時代の建物は現在でもあちこちに「他所の何処でもない浜松の中心市街地の建物」という姿で残っており、愛着を感じさせるものが少なくありません。

静銀浜松支店つまりは旧浜松銀行、肴町の植村紙店さんや三米商店さんのように堂々とした様式建築があります。そして連尺通りの伊勢屋さん、肴町のタケヤ文具さんは戦後花々しく登場したル・コルビジェの頃のスタイルを忠実に守っており、当時の「時代の精神」を感じさせてくれます。

ところが70年代以降、次第にそうした主張を持った建物が次第に姿を消しつつあるような気がしてなりません。連尺町の共同ビル、田町ショッピングセンターなどは確かに当時の先端技術の粋を凝らして建てられたものなのでしょうが、建物としての主張、というよりは均質な都市空間の一部分、という見え方をしています。確かにそれは近代建築の一つの側面ではありますが、同じようなたたずまいを見せる街角が静岡市では呉服町通りにも見られますし、東名高速道路から都内に入れば三軒茶屋から渋谷に至る首都高速沿いでも見ることができます。

「他所の何処でもない浜松の中心市街地の建物」から「何処にでもある市街地の建物」へと時代が変わりはじめていたのでしょうか。かっては広く市民の愛着を集めていた中心市街地が、「地元発注・地元設計・地元施工」から「何処かで発注・何処かで設計・何処かで施工」となるにつれて、いつの間にか「見知らぬ他所の街」の様に見えてくるような気がしてなりません。

かっては個人経営で個人が建てていた建物が、共同ビルとなるのにつれて貸店舗が増え、まちなみ景観の「担い手意識」が希薄になってきている、という指摘があります。耐火建築促進法の時代にくらべて、融資制度・補助制度が複雑になり過ぎ、専門のスタッフを擁する東京のデヴェロッパーさんでなければ銀行を説得出来ない、ということもあるかも知れません。しかし昭和30年代頃、私などが小学生だった頃にくらべると、街並の姿が全国どこにでもある「見知らぬ他所の街」に変身するにつれ、浜松の中心市街地が持っていた「ワクワク・ドキドキ」が大分希薄になってきているようで心配です。

「浜松の中心市街地1951-1997」3dアニメの
小型版(240x160)を
http://geocities.com/hamamatsucbd/index.htm
に置きました。御覧ください。
フルサイズ(720x480)のファイルがcdで用意してあります。.mcd, .dxf, .dwg, .jwcも入ってます。御希望の方は.avi, .movの区別を古山までお知らせくだされば実費ビール券1枚でお送りします。

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