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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.17

□「トトロの町」
□脇往還の中心地
□森の石松の「縞の合羽」
□ラッキーだった浜松の繊維


北町交差点付近。 交差点を中心に瓦屋根を葺きさげています。二階座敷きのガラス窓の建具が凝っています。




昭和30年代、「日立チェーンストール」の店先には「ステレオ」が飾られていて、「ゲルマニウムラジオ」を作って聴いていた私達の憧れでした。


今では「公衆の健康を損なう」と犯罪扱いのたばこですが、当時は「おくりものにたばこ」でした。


おーっ、これはオダイサマである。

まちづくり委員会の活動の一つとして、「浜松まちづくりセンター」が呼び掛けた、浜松市周辺の歴史的なまちなみのデザインサーベイに参加しています。中之町・篠原の旧東海道という話もあったのですが、先ずは笠井の本通ということで大学・専門学校の学生にも呼び掛けて夏休みに写真をとり、作図にかかっています。中之町でも国道1号線天竜川橋の工事が進んでいますが、笠井街道のバイパスが完成すると、まちなみを取り巻く環境が大きく変わりそうで、これからの町並みを考える参考として役立ててもらえるのではないかというのが笠井を取り上げた理由です。
現在かなりの交通量のある笠井の本通ですが、町はずれには新しいコンビニなどが建てられているものの、上・中・下という中心部には昭和30-40年代の建物が数多く残されています。「となりのトトロ」の背景に描かれていた「トトロの森」と同じ時代の町並みがそのまま残っているのですね。これは「トトロの町」と呼んでも良いのではないかと思います。バイパスの開通とともにこの町並みはそのまま凍り付いて、やがては忘れ去られてしまうのでしょうか。

車を避けながらもう少し良く見ると古い建物もあちこちに残っています。明治初期、「浜松田町・笠井町・掛塚町の地価が同じだった。」という頃に建てられたものも混じっています。二階など雨戸が閉じ切りになっているお宅が多いのですが、凝ったつくりのガラス窓も見て取れます。「ウチの親爺が天下一を取ったことがある。」という建具屋さんがやはり笠井でした。当時の笠井にはそうした需要があったのでしょう。
東海道筋同様、重厚な出桁のファサードがある一方、かっては板葺きだったと思われる軒を深く出した建物には、大平宿などと同じ伊那谷の民家の匂いもします。「筏の衆は筏に自転車を積んでいて、それで笠井街道を帰っただね。観音様の裏に水商売の家もあって、鯉なんか御馳走だった。鯉こくちゅうのは信州のもんだね。」というわけで笠井街道は福田-森-秋葉山の道と同様、東海道筋と信州を結ぶ街道であったことが伺えます。

現代の我々からは当時の街道の姿はなかなか想像しにくいものがあります。「馬といっても荷物の間に挟まって2-3里毎に乗り換えねばならず」「駕篭といっても日に10里がせいぜいで、連日乗れば窮屈なこと堪え難く、西国の大名が罪人の刑罰に「駕篭に乗せて江戸に送れば宜しい」と言ったくらい」のもので、結局普通の人は自分の脚で歩くしかありませんでした。それも新居・気賀の関所のように幕府が設けた関所の他に、各藩が独自の関所をたてて、関所破りは重罪という「小鎖国」があちこちに見られる時代が続いていました。東海道五十三次は大名行列という「公共事業」の舞台ではありましたが、一般庶民にとって、特に幕末の動乱期に流行った「ぬけまいり」では、秋葉山から豊川稲荷へ抜ける道といった脇往還が主な移動ルートだったと思われます。