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そうした脇往還を舞台とする物語にいわゆる「股旅もの」があり、その代表的なものが「清水次郎長物語」です。ここに登場する人物にも、東海道筋だけでなく森の石松・大瀬の半五郎・小松の七五郎といった、脇往還沿いの人物が出てきます。小松村の村はずれで、森の石松を騙し討ちに殺してしまうのも、都田村の吉兵衛です。手形を持ったお侍ならいざ知らず、臑に傷を持つ「渡世人」が天下の東海道など歩くわけにはいかない、と同時に講談を聞く明治以降の庶民にとっても脇往還の方が想像しやすかったのではないでしょうか。 ところで股旅ファッションである「縞の合羽に三度笠」という、あの縞の合羽はどこであつらえたかというと、笠井の市で仕入れた、と考えると辻褄が合います。平安時代に東海道と信州街道の交差点であった市野は稲作地帯であり、年貢を中心とした「真面目な」経営で成り立っていたのに対し、年貢の多く望めない畑作地帯の、集荷地である笠井では市が栄えました。年貢に依存した幕府の財政が、赤字によって崩壊しつつあった幕末、年貢が出せないためにひと足早く貨幣経済に進んでいたのが、当時の笠井だったのではないでしょうか。そこには信心から伊勢・豊川・秋葉山へ向かう人々に、農村あるいは都市から食い詰めて「渡世人」と化した浪曲の主人公も混じっていたはずです。脚で歩くしかない時代の「旅」ですから、ヒッチハイクなどして世界を廻ってしまう今の「電波少年」のノリの若者も混じっていたかも知れません。 1845年には浜松へ、関東平野の繊維流通の中心であった館林から、井上正春が領主として移封され、それまであった遠州木綿に先進地の技術を付け加えて、飛躍的な発展を遂げたのだそうです。この時代、脇往還の市場として栄えていた笠井は、程なく遠州綿業の中心となりました。というわけで「次郎長一家」の面々が引っ掛けていた「縞の合羽」は「笠井の市」で仕入れた「河西縞」ではなかったかと思われるのです。当時の笠井の市の繁栄は、店賃の高さに業を煮やした浜松宿の旦那衆が集まり、隣接する恒武町に「遠陽市場」と称する大規模商業開発をやって客を引き込もうとはかったことからも類推できます。
「笠井の市」の一人勝ちする条件が変わってしまったのは、明治23年の東海道鉄道の開業でした。平田西見寺の裏に停車場なんか出来たら、客が迷惑するから、そんなものは法雲寺の裏へでも作ってくれ、と旅籠の旦那衆が迷惑がった岡蒸汽でしたが、文明の利器が走り出すのを実際に目で見ると、人々はたちまちその魅力に取り付かれてしまいました。明治42年に開通した遠州鉄道西鹿島線の西ケ崎駅から、大正3年には笠井までの支線が接続しましたが、その頃にはすでに遠州木綿は笠井の市ではなく、浜松駅に集合して汽車に乗り、全国へと販路を広げていました。
笠井の町を歩いた後で、地域産業史の原典とも言える「遠州織物史稿」(中村又七 /遠州織物史稿刊行会 /昭和41年3月1日)を読み返してみて面白いことに気付きました。同書には
(2003.09.11)
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