01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 index
社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
〒430 浜松市元城町109-12
電話 053-453-0693, fax 053-453-0698
e-mail:.ask@tcp-ip.or.jp
http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/

No.16

□産業近代化の記念碑
□耐震補強の為の耐震補強か
□産業考古学館として再利用
□焼跡に見た未来




先年、市役所本館の耐震診断結果が出て、東海大地震には耐えられず、なんとかしなければならない、ということでした。何か意見があれば、というので、次のような手紙を出しておきました。


浜松市企画課
庁舎整備基本構想検討委員会 御中

市役所本庁舎の整備に付いて

私は市役所の本館が好きです。スパニッシュコロニアルスタイルの静岡市役所が県都である静岡市の特徴を表しているのと同様、ワイマール共和国に源流を持つ、ドイツ表現主義の流れを組む浜松市役所の建物は、戦後の民主主義日本の息吹を思い起こさせ、日本を代表する地方産業都市の顔に相応しいものだと思います。 「歳月が名建築を産む」という言葉が有りますが、市役所本館の建物が市民にとって浜松の顔となるには、昭和27年の竣工以来、これまでの浜松市の発展の歴史が必要だったのでは無いでしょうか。21世紀に入り浜松の産業構造もグローバルな変化を遂げるものと思われます。その中心に産業近代化という浜松市の基本的な性格を生み出した時代の記念碑ともいうべき建物が有れば、浜松市の誇りを形にしたものとして、これからも長く市民に愛されるはずです。

昨年9月11日のニューヨーク世界貿易センタービルの崩壊事故は、それによって米国経済が麻痺することも無く、時代が既に施設を中心としたものから情報流を中心としたものへと移り変わっていることを雄弁に物語っていました。インターネットが米国における行政事務合理化の手法として始まった通り、行政改革を実りの有るものにするためには、行政事務を施設に頼るものから、情報流を中心としたものへとする変革が不可欠となりましょう。いたずらに施設の威容を誇る時代ではなく、情報流が市民にとって親しみやすいものにすることがこれからの庁舎に求められる性格だと思います。 昭和27年竣工の本館には耐震性の向上が求められていることと思いますが、これを耐震補強の為の耐震補強とせずに、合併をも視野に入れ、IT時代に相応しい性格と性能を持った建物とするための耐震補強工事とすることが考えられれば、本館は再生するものと思います。

東街区の一部がシビックコアと位置付けられるまでも無く、市役所周辺は16世紀末に徳川家康によってシビックコアとされたものです。本館の敷地建物の変更を伴う整備に先立って、周辺の整備も考えることが出来るのではないでしょうか。たとえば図書館北側の公用車駐車場を地下に埋設し、その上を元の地形をなぞった高さの事務室とし、さらに屋上を公園とする、などです。隣接の図書館、松城アパートと一体化して地形を大切にすることも浜松の顔として愛される地区の姿だと思います。

近年PFIという手法を耳することが有りますが、見方を変えれば由って以て為にする議論であり、欧米近代国家に広く見られるように近隣の民間貸事務所を借用すれば済むことではないでしょうか。


PFIの件は蛇足ですが、耐震強度が不足しているからといって、取り壊すには及ばないのでは無いかと思います。ライフラインに関わる機能を不急機能と入れ替えて、現在の建物を残すことは出来ないものでしょうか。聞けば産業考古学館の計画も緊縮予算のあおりを食って宙に浮いたままだそうです。いっそのこと市役所旧館は産業考古学館、としてはどうでしょう。欧米では庁舎等重要な用途に使っていた建物が新築されると、それまで使っていた元の建物を博物館として再利用、という使い方が良く見られます。昭和27年竣工の市役所本館は明治23年の東海道鉄道開通、大正元年の鉄道院浜松工場開設以来急成長を遂げた西遠地域の産業が、世界に羽ばたこうとした時代のものです。浜松の都市としての性格をよく現した建物であり、横浜、長崎等、文明開化が特徴となる都市のものとは違う、西遠地域らしい産業考古学館として、適切な入れ物ではないでしょうか。



バンク−バ−美術館は元の地方裁判所


ワシントン州キャマスでは建築指導課が
なんと役場の前の保存民家建築に、

耐震強度が不足しているならば、警報発令時に閉鎖・立入禁止等の措置を取ることが出来るのでは無いでしょうか。この時代の建物を残しておいて、東海大地震にどう耐えるかを検証してみることにも大きな意義があると思います。 昭和19年の東南海地震では遠州地方も大きな被害を被りました。この地震の被害について聞いてみて、印象的だったのは袋井近郊の地盤軟弱地域では「本家は無事で新屋分家が倒れた。」という話でした。言うまでもなく開発が古く、もともとしっかりした地盤を選んで建てられた古い家は助かり、田畑を埋め立てて作られた新しい家が弱かった、と言うことでしょう。阪神淡路地震でも断層帯直上の建物が大きな被害を被ったのと対照的に、地盤を選んで建てられた戦前の建物が多く残りました。16世紀末に旧引馬城を拡張して作られた、市役所を含む浜松城の敷地が適切かどうか、興味のあるところです。

近代建築史から言えば関東大震災の経験を構造設計に取纏めた「鉄筋コンクリ−ト構造設計基準」が出来たのが戦争の色濃い昭和8年でした。「世界一の耐震技術と世界一の城の意匠を結び付ければ世界一の建築が出来る。」という軍人好みのシンプルな発想で軍人会館・愛知県庁・満州国の官庁建築等が作られたのもこの頃です。今では市役所西館に隠れて見えない浜松城天守閣にある博物館分館の建物も、デザインと構造の組み合わせはこの流れに沿うものでしょう。これに対して戦争が終わり、軍人好みの城郭の意匠を取り去って、構造と機能を純粋に結び付けたのが市役所本館のデザイン意図だと思われます。

正庁道路面の大きな壁とはずされてしまった望楼はバウハウス式の機能主義と、市役所とは何かを目に見えるものにしようとする表現主義、そして城郭の意匠を脱ぎ捨てた構造主義がぶつかりあった結果とも見えます。第一次世界大戦後、「植民地を増やせば国は豊かになる」とした戦勝国とは対照的に、「工業近代化によるしか生きる道はない」と考えたワイマ−ル共和国では国立造家大学として「バウハウス」が作られました。その後ナチスに国を追われたバウハウスのスタッフは多くが米国に渡り、戦後、米国の近代産業を形作る建物を残しましたが、市役所本館のデザインは、バウハウスを生んだ第一次世界大戦後のワイマ−ル共和国同様、綺麗サッパリ焼け野原になってしまった浜松で、「工業近代化によるしか生きる道はない」と感じた西遠地域の多くの人が、共感できた未来を表現しているもののように思えます。産業考古学館を考える際にも、前史はそれとして、西遠地域の性格を大きく形作った、として光を当てるべき時期は「市内にポンポンのブランドメーカーが20数社あった。」と言われるこの時代ではないでしょうか。市役所本館はこの時代が目に見える形になっているという、西遠地域にとってのまたとない記念碑です。(2003.05.15)

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 index