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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.1

□大名行列の直前横断は即打ち首
□脇往還は近代産業の古里
□使う人が形作る「路地」
□都市の個性を産む「路地」






明治40年頃の東海道松並木
伊藤弥恵治の素描(市立図書館蔵)



明治40年頃の常盤町付近(同上)


明治40年頃の富塚町付近(同上)


台北総督付近の「愛国路」は後藤新平の頃に作られたもの。 交通量を計って、というより、 ただ立派である為にやたらと幅が広い。


ソウル景福宮前の「世宗路」。
ただただ立派な表通りと言うのはソウルもペキンもピョンヤンも似ていそうな感じがする。



日本銀行本店のすぐ近く、日本橋三越裏にもまだ「路地」が残っています。
「側溝」でなく、中央に溝があるのは「道路」として計画されたので無く、 隣接する敷地裏側同士の間に排水溝を取った「コエ汲み」として発生したもので、 「路地」である証拠。「裏表がある」「裏が臭い」というのはアジアに共通の街の姿なのかも。



ワシントンスクウェア付近のブロ−ドウェイ路上における犬のしょんべん(人のでは無いと思う。)
裏路地が無いと犬もしょんべんをする所が無いのだね。

ろじっくす?

どうも表通りが嫌いで、というと何だかヤクザ映画の台詞のようですが、 大名行列の直前横断は即打ち首、という訳で、江戸時代には表通りと言うのは結構物騒なものであったようです。 幕末にはこれを知らない「毛唐」が殺害され、外交問題に発展した生麦事件というものもありました。

広重の「東海道五十三次」の「浜松」は大きな木の下で旅人が焚き火に当たっている絵柄ですが、 どうもこれは大手門の近くという感じがしません。「木戸から内、街道筋には町家が並んでいたが、 裏は田畑ばかりであった」という話からすれば天神町あたり、とも考えられますが、 このシリーズが写生よりも風景の「評判」を絵にした要素が多いところから考えれば、別の見方も出て来ます。

御城下の旅篭は公務出張のお武家様でも無い、普通の旅人にとっては敷居が高くて泊まれ無かった、 ということもあったのでしょう。

そうした「普通」の人々にとっては「姫街道」の様な脇往還の方が気楽なものであったに違いありません。 「今切れの渡し」も同様で、舞阪から新居に渡す正規ル−トだけで無く、 脇から漁師に頼み込んで漁船に乗せてもらって浜名湖を渡る、ということも行なわれていたようです。

明治以降、殖産興業の時代に繊維から自動車に至るまで、鷲津周辺が民間活力の集中する場所であったのは、 新居が参勤交代という公共事業に寄り添って活きる街であったのに対し、 「脇往還」の船着き場であった土地柄によるところが大きいのでは無いかと思います。 雄踏船着き場から浜松へ通ずる雄踏街道も同様で、 明治の蒸気船による浜名湖渡船に始まって繊維から自動車へと「脇往還」の近代を進んで来ています。 そうしてみると「東海道五十三次」の「浜松」も中野町の、姫街道追分けあたりの景色と見て不自然では無いでしょう。

「道路と鉄道」は国家が作るもの、であるならば「路地」は町衆が作るもの。というイメ−ジがあります。 近頃LRTと称して再び脚光を浴びつつある軽便鉄道も同様で、 広軌鉄道が国家によって作られたのと対照的に、 狭軌鉄道は地方政府・市民によって作られて来たというのがヨ−ロッパの伝統であり、 それゆえにLRTが地方の時代の象徴としての意味を持っているようです。 してみると国土交通省なる中央官庁が音頭をとってのLRTなど、何となく本末転倒な匂いがします。 それも霞ヶ関御出入りの車両メ−カ−が取り巻いているとなると、いやはや、という感じ。

「路」というのはこれまた国家の象徴みたいなものであることが、台北の街を歩いていて感じられました。 孫文から採った 「中山路」はともかく、 「愛国路」「忠孝路」「信義路」等という価値観の押し付けから、 「南京路」「重慶路」「西蔵路」とくると、この街を中華大帝国のミニチュアにしよう、という意図が見えてしまいます。 日本人が去り、さて自分達の手で国作りを、と張り切っていたところへ、 中華五千年の歴史の重みが居座ってしまった台北市民の苦しみや如何に、と思います。

韓国でも「路」というのは似た様なもので、 偉人の名を採った 「乙支路」「世宗路」「忠武路」ときて、 思想家から採った 「栗谷路」「退渓路」はよくも悪くも韓国が儒教の国であることを示しています。 しかしその昔、時の鐘があったというのが 「鐘路」であり、南大門に続くのが 「南大門路」、川に蓋をして 「清溪川路」とだんだん国家思想は稀薄になり、 「明洞キル(通り)」「仁寺洞キル(通り)」では「路」が無くなって大分「路地」っぽくなっています。

一国の首都における「路」は国家が作るものですが、そうした大都市でも、 「路地」は表通りのように立派な、国家思想を象徴するものとは限りません。「路地」という言葉からすれば 「路として使われれる地面」 「国家が路として作ったのでは無いが、自然に人が歩いているところ」 という程のものでしょうか。路地は使う人が作る、とも言えそうです。 茶道で「路地」を言うのもそうした使う人が形作ることを大切に、ということでしょう。 地積図の「赤道」にも一本一本それぞれの歴史、経緯があって人が歩く地面となったのだと思います。 多くの場合は記録が無い為に解らないものの、中には何千年かの歴史を秘めた「人が歩く地面」もあるに違いありません。

自然に人が歩いたので、そのようになってしまった。 という点からすれば成子坂下から呉竹荘の裏を通ってグランドホテル前に通ずる小道など、その典型だと思います。 その昔は尾根伝いに人が歩いていたのが、片方に塀が出来たので、自然に塀沿いに人が歩くようになった、という姿をしています。

鴨江からから広沢にかけては、近代都市になる前の浜松の姿を起こさせる「路地」があちこちに残っています。 秋葉坂途中の路地にはつい先年まで長家門の構えを残したお宅もあり、世界でも最も優秀な行政官集団であった、 我が国における武家の「葉隠れ」の気概を感じることが出来たのですが、建て替えられて残念。

近代的に見える中心市街地でも、「国家が作る表通り」だけで無く、 路地が結構街の姿そのもののベースになっていることに気付かされます。 「表通り」が骨格ならば、「路地」はその骨格が成り立つ「空気」の様なもの、とも言えるでしょう。 中心市街地でも戦災にあって消失した所では、背割り道路、いわゆる「コエ汲み道路」が整備されましたが、 こうした「路地」は下水道整備の進展で、サ−ビス道路としての役割は少なくなりました。

しかし成り立ちそのものは終戦直後の細街路の整備ということであっても、 例えば静銀浜松支店裏の路地など、 当時から今に至るまでのそこを歩いたであろう人々の残した「残り香」の様なものを感じることが出来ます。

「立派であること」という普遍的な価値を背負わされた表通りよりも、 こうした「路地」の方がそれぞれの都市独特の体臭を持っていて、 それぞれの都市の魅力を成り立たせる重要な要素になっているのではないかと思います。

「立派」な表通りから見る限り、全国の都市は清潔で匂いのしない同じ様な景観に覆われつつありますが、 一歩「路地」に踏み込むと、まだまだ捨てたものではありません。 外国に行っても、一泊100ドルのホテルに泊まったのでは、部屋の様子からレストランの朝食に至るまで、 世界中が同じになってしまっているようですが、 ちょっと「路地」を入ればまだまだ世界は広いなあ、と改めて感じさせることもたくさんあります。

そんな「路地」の考察を含め、浜松の姿を私なりにしばらく考察してみたいと思います。

路地には何かが漂っているのです

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