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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.4

□東海道鉄道で始まった浜松の近代
□停車場周辺は馬糞だらけ
□お上をアテにしない近代化
□反物・広幅・ポンポン・四輪車






明治23年測量 大日本帝国陸地測量部 1/20,000地形図より


大正7年編纂 中根 櫻 濱松市大地圖より


「新町裏」 伊藤弥恵治のスケッチ 明治39年頃


「板屋町裏」 伊藤弥恵治のスケッチ 明治39年頃





浜松依託倉庫株式会社・社史 より

馬糞通

競馬場の裏で馬糞をつついて一獲千金、というのは「まぐそつう」、昔浜松にあったと言うのは「まぐそどうり」です。 先輩方に聞いても現在の名鉄ホテル北側の道路の辺りがそう呼ばれていたらしい。と言うくらいの答えしか帰って来ません。

明治23年の地図を見ると、新しい広小路から東へ線路沿いに畑の中の踏み分け道の様なものがあります。 これが後に言う「馬糞通」の原形でしょうか。 大正7年の地積図を編纂したものでは大分道が増えています。 新しく作られたであろう道の他にも、明治の官製地図では「道路」と考えられなかったもので、 人々が「道の様な使い方をしている」「路地」ではないかと思われるものも含まれています。

図書館にある伊藤弥恵治のスケッチに見る「新町裏」「板屋町裏」は、 現在でも郊外農村地帯で見かけることのできる典型的な遠州の農村の景観です。 そこへ明治22年4月、東海道鉄道が開通し、板屋町法雲寺裏に停車場が出来ました。

「封建的割拠の思想を打ち砕くには 余程人心を驚かすべき事業が必要」

という訳で、鉄道を文明開化の目玉として仕掛けたのは大隈君と伊藤君です。 最初、中山道を通る予定だったものを明治19年に東海道に変更し、3年で開通してしまったのですから、 相当に乱暴なやり方だったのでしょう。

東海道鉄道の開通によって、近郷近在からでも農家の庭先で織った綿織物を、遠くに送り出すことが出来る様になりました。 のどかな田園地帯の続きだった停車場周辺には、遠州地方の隅々から、綿織物を積んだ荷車が、数限り無く押し寄せて来たのです。

浜松依託倉庫株式会社の社史に左下の様な当時の写真が載せられています。 新川端の丸Hビルの廻りは荷車と人でごった返しています。丁度現在の駅周辺で、厄介ものとなっている自転車の様な感じです。 しかし自転車に較べると図体のでかい荷車であり、人が引く大八車ならまだしも、 荷馬車であれば所かまわず垂れ流し、という状態だったのではないでしょうか。

この写真から受ける印象では、「馬糞通」は特定の道路を指したものでなく、 近郷近在から押し寄せた荷馬車によって、停車場周辺の道路という道路、路地という路地に馬糞がまき散らされていた、ということではないかとも思われます。 静岡県は東西に長い上、2/3が山岳地帯であり、元々産業用地に恵まれていた訳ではありません。 しかし東海道鉄道が開通することにより、他の地域に先駆けて近代的な流通手段の恩恵を受けることになり、 しかも地域人口の殆どが荷車を引いて停車場に行ける、という有利な条件に変わったのです。

日本の近代化の一つのパタ−ンは、製鉄・造船などという重厚長大型の近代産業が、 国家プロジェクトとしての手厚い保護を受け、莫大な投資が行われて成り立ったものでした。 しかし遠州では、地域の人々が農家の庭先で織った綿織物を、荷馬車で停車場まで運ぶことで近代化が始まりました。 大正元年の国鉄浜松工場開設後も、工場自体での国家プロジェクトとしての先端技術開発はそれとして、 そこからスピンアウトし、町工場で誰にも遠慮することなく、 自分の「腕」を発揮することを喜びとする職人衆によって、町の姿は大きく変わって行きました。

伝統的なイザリ機は近代織機に姿を替え、織機の技術はやがて自動車産業を産み出しました。 外国技術導入型の日本の近代化の中で、「町工場で自動車を作ってしまった。」 というのが「ポンポン」に始まる自動車産業の面白いところだと思うのですが、 浜松はこうした「町工場型自動車産業」の発祥の地なのです。

昭和初期の我が国の輸出額の2/3が絹糸・絹布だといわれています。 同じ頃浜松人は欧米先進国へ輸出するための絹糸・絹布と同時に、綿織物にも励んでいました。 こちらは先進国へ製品を輸出し、見返りに先進国の近代技術を買って帰る、というのではなく、 東アジア各地へ出かけて、ほんの少し前まで、浜松でもそれしか無かった、 という伝統的な綿織物生産者を相手に、「安くて良いよ−。」てなわけで反物を売り捌きました。
反物だけで無く、それまでは植民地宗主国を通さなければ、手に入らなかった広幅織物も同じ様に「安くて良いよ−。」 と売りまくった訳です。 浜松にとっての第二次世界大戦が、戦艦大和と零戦よりも、むしろ綿織物にあったのではないか、 と言う感じは戦争が終わってからの「ガチャマン」の時代を見ても強く感じられます。

近代国家は「結局戦争しかやらなかったじゃないか。」という想いは、敗戦の虚脱感に関係無く、 むしろ国家の尻馬に乗らない方が思い通りの商売ができる、とばかり「安くて良いよ−。」 をさらに世界中に拡げた繊維関係者の実感ではないでしょうか。 「お上を頼っても、どうせ何処か別の町で行なわれる国家プロジェクトに貢がされるだけだ、 ならばお上など頼りにせず、自分で何処かに出かけて商売をした方が良い。」 という浜松人の生き方は「繊維」は「ポンポン」に変わっても続きました。

北九州一帯、常磐線沿線、のように国家プロジェクトに寄り添うことで繁栄に至った地域では、 他人に未来を託すこともまた、選択枝として納得しやすいものかもしれません。
しかし浜松はそうした近代を持つことはありませんでした。 浜松で自分達の未来が他人の手で決められてしまうことは我慢できない、 という想いが他の地域に増して強いのは、このような地域の歴史からみて納得のいくものです。

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