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社団法人 静岡県建築士会会員

古山惠一郎
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No.15

□浜松の中心はどこだ
□松菱は浜松のエンパイアステートビル
□きれいサッパリ焼野原
□耐火建築促進法による「防火帯」




現在の田町交差点


夜の田町交差点


昭和8年の田町交差点

私の子供の頃の、つまりは昭和30年代の浜松の商店街の中心というと、鍛冶町交差点と田町交差点あたりでしょうか。昭和46年には西武デパートが出来て、連尺の交差点を結ぶ四角形の区域が中心市街地のそのまた核となったような気がします。「玄忠寺の裏は田圃だった。」といわれていたものが、明治23年、東海道鉄道開通とともに鍛冶町通り、田町大通り、広小路という3本の道が東海道往還から停車場へ延び、大正期以降、爆発的な成長を遂げた浜松の商店街の中心となりました。

連尺交差点が大手門であり、どちらかといえば官庁街であるのに対し、田町交差点は下町であり、江戸時代から続く東海道沿いの一等地、という趣があります。それだけではなく、ここから北に延びる田町北新道ではオートバイ、楽器という世界のトップに立つことになる産業が育ちました。

図は現在の田町交差点ですが、戦災以前の写真を見ると、中村輿資平による昭和3年竣工の浜松銀行本店の向こうに、昭和8年に竣工した松菱百貨店が聳えるものの、町並み景観としては木造洋館、明治初期に確立した、木造板張りまたは左官工事による擬石張りという、どちらかといえば大工の技術による2階建て、一部3階建ての建物が並んでいたようです。

松菱百貨店の完成はニュ−ヨ−クのエンパイアステートビル(1931年)に遅れること2年であり、これらの建物が大正3年の第一次世界大戦参戦から昭和4年の世界大恐慌まで続いた一種のバブル期の果実といって良いでしょう。我々の親の代まで、松菱は遠州地方における唯一の近代的消費生活の殿堂といっても良かったようで、子供の私にとっても「浜松に行く」というのは松菱百貨店の隅に聳えるネオン灯を見上げに行くことを意味していました。

昭和4年の世界大恐慌以降の時の流れは丁度今回のイラク責めと同じ筋書きで、貧乏国の軍部をつついて手をあげさせ、手を上げたところを徹底的にたたいてその間に株で儲ける、という国際金融資本の望むやり方だったような気がします。私の子供の頃には松菱百貨店屋上にはミニ動物園が有ったのですが、戦時中は田原かどこかで撃墜されたb29のパイロットがここで熊のオリに入れられてさらしものになっていた、という話も聞いたことが有ります。


昭和20年の田町交差点

そうしたいくつかの近代的耐火建築と江戸時代以来の蔵造りを残して、明治以来、大工が作って来た浜松の近代的都市景観は昭和20年6月18日、きれいサッパリと焼けてしまいました。「b29」というホームページがあり、同窓会なども開いておるようなので、ネットを丹念にさがせば、下手人達の名前も解りそうです。
Pacific War Chronology
「曇り、0325より10,000フィートで爆撃、迎撃機無し、対空砲火無し、市街地の70%を破壊」
と58年後のバクダッド同様、無抵抗の市街地をなぶり殺しです。


両国焼跡

空襲後の焼け野原の写真を見ていて不謹慎にも、「なんだ同じじゃないか。」と思ったのは明治の初め頃、小林清親がくり返し描いた江戸の火事の様子です。明治14年の「両国焼跡」と題する絵など、浜松大空襲の写真と構図まで同じなのです。「火事と喧嘩」が江戸の華であり得たのも秋田・霧島といった銘木ではなく、ロ−コスト材である天龍杉があったから、とも言えるわけで、天竜川流域はどちらかといえば江戸の火事の恩恵に預かっていた地域、ともいうことが出来ます。我が身に火の粉がかからなければ、「きれいサッパリと焼けてしまう」というのは遠州人にとっては長く儲け口だったわけです。我が国の火伏総本山である秋葉神社が天龍川筋に祀られているのも、一夜で百里を行く、という行者達の助けを借りて全国の火災情報を造材計画に役立てようとした、という裏読みもで出来るのではないでしょうか。

国家に寄り添って暮らして来た人々、地域に比べ、遠州人は焼跡からの立ち直りも素早かったようです。江戸の焼跡で天龍杉が使われたと同様、全国に戦災復興の為の材木が送られたことでしょう。平和産業としての綿織物と織機の輸出はポンポンの時代へと受け継がれました。

「ポツダム宣言の提案国は米・英・支・蘇四カ国であり、中華民国に復帰した台湾出身者は連合国民、宣言に言う第ニ国の国民である。」「不法な国家纂奪によって植民地とされた韓国・朝鮮人も台湾出身者と同じであるから連合国民としての地位を有する。」という勢力と、「あれは連合国民ではない、第三国人だ。」とする勢力とがぶつかった昭和21年の新橋戦争・渋谷戦争が、昭和24年になって浜松に飛び火したのも、ここが戦後の大東亜共栄圏の、特に国家の力を借りない産業近代化の行方を占う関ヶ原だったからではないでしょうか。


平成14年の伝馬町共同ビル

「闇市のバラック」をどうにかしようという行政から持ち込まれた話が動きだしたのは昭和30年代になってからのようで、後に「ショッピングセンター」と呼ばれた田町大通りの北のこの交差点と南の松菱前交差点、さらに伝馬町交差点で囲まれる一角が浜松の顔と考えられていたようです。この時の開発手法は昭和27年から36年までの時限立法であった「耐火建築促進法」であり、震災から戦災までの経験から、中心市街地を火災に強い近代的な街にしようとするものでした。また「防火帯」と呼ばれる通り再開発が点から面へと移る一歩手前の「線の時代」であり、静岡市呉服町と浜松市は地方都市における実験的なプロジェクトでもあったようです。(「マスタ−プランと地区環境整備」森村道美/学芸出版/1998)

昭和46年には伝馬町の一角に西武デパ−トが姿を現しました。渋谷・新宿・池袋という都心のタ−ミナルの景観を浜松市の中心部に再現したもので、その後30年程、浜松市の中心市街地の構成要素となりました。西武デパ−トの敷地はその後ZAZA Cityと姿をかえ、私などからすれば「見知らぬ街の見知らぬ街角」の様.でもありますが、ニュ−ヨ−ク、ロンドンと全く同じ店構えをしたコ−ヒ−屋に座って向いを眺めると、そこには「浜松へ行く」のが「わくわく・どきどき」であった時代の街並みが変わらずに残されています。 (2003.05.01)

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