1 長良橋と金華山
 橋と山が写っていますが、長良橋と金華山(どうして岐阜県に金華山があるのかと思った人はクリック)です。山の頂点のような位置に何かぽつんと突起のように見えるものが岐阜城です。織田信長が西暦1567年からここを重要な本拠地にして天下統一に乗り出したのです。もちろん、今あるお城は再建というか、建築物としては本来のものとは関係がないというか・・・コンクリートでできています。何しろ、織田信長の時代は山全体が要塞となっていたのですから現状とは全く違います。。1997年の夏頃竣工の予定でこのお城はまた、綺麗にしています。このお城の右に展望台があります(この展望台から見た長良川はここ同じく、この展望台から見た長良川周辺の夜景はここ。)。
  
 この写真では、長良川は幅広い河川敷の中央をちょろちょろと流れている小さな川という印象ですが、伊勢湾に流れ込む3大河川の1つであり、実際には半端ではない量です。もっとも、私が子供だった頃と比較すると水量は減っているような気がします。私が子供だった頃に当時の大人達もそう言っていたような気がしますが。
 なお、この写真の長良橋の上あたりに白い円弧状のものが2つ見えますが、これはパラセールです・・・と言うのかな、正確な名前はよく知りませんが、ああいう形のパラシュートのようなのにぶら下がって、エンジン付きのプロペラを回して空中を浮遊するものです。これはいつも長良川でやっているのではなくて、たまたま、この日はアウトドアスポーツの振興のための催しをしていたのです。
 さて、長良川の流域は、昭和34年9月の伊勢湾台風、続いて昭和35年8月の集中豪雨と連続して大きな風水害を受けましたが(但し、伊勢湾台風は高潮により伊勢湾沿岸地域が最も大きな被害を受けた。全国の死者は5101人、そのうち、愛知県、三重県両県で4600人を超える死者が出たのである。なお、昭和51年頃にも長良川を中心に大きな水害があった。そのときは私は岐阜県にいなかったので第一人称では語れないが、長良川の下流で堤防が決壊した。)、この写真は、長良橋の少し下流の部分で、私が高校時代まで日夜、川の音を聞いていた辺りです。昭和35年の豪雨のときは、写真に見える堤防を水が乗り越えるのに後数十センチというところまで水量が増えました。これくらいの河川敷があってもなお、危険な状態になることがあるのです。父が最初に川を見てきて、「堤防の上から(長良川の水で)手が洗える」と言ったのを聞いて慌ててとんできました。私はそのとき、この川の中を家が1軒丸ごと流れていくのを大勢の大人と一緒に堤防上から見たのを覚えています。今から考える と、よくそんな状態の堤防上に居られたなと思いますが・・・(平成11年9月の豪雨後の長良川を見て下さい。このときはまだ、余裕がありますが、それでも平常と比べるとものすごい水量です。)

 なお、この写真の左手の方の洲あたりを打ち上げ現場にして盛大な花火大会が年に2回開催されます(7月最後の土曜日( 中日新聞 提供)と8月最初の土曜日(岐阜新聞提供)( 直近の花火大会の様子 岐阜新聞が撮った写真の頁  私の撮った写真の頁(1枚しかありません。)) 東海地域では最大規模だと思います。約3万発が上がります。私が子供の頃には、2尺玉がどんどん、上げられた年もあったと記憶しています。2尺くらいになるとすーーんごく上まで玉が上がっていくので、打ち上げ現場近くで、火のついた玉が上がっていくのを見ていると、芥子粒のような赤い点はどんどん上に上り、やがて天頂へ至り、更に、それを超えて自分の後ろにまで行くように思えます。そして、これが開くと空全体に巨大な花となって開き、大きなヘルメットをかぶったような気がします。そうやって見上げたままいると、花火の余韻が去ってあたりが静かになっても、ずうっと消えない星があります。よく見るとそれは本当の星です。冬の寒いときにあの星を見たなあとか思うと急に冬が懐かしくなります。
 それはさておき、2尺玉の開いた後の音がすごいこと。どおーーんと、鳴ってから、その音波が金華山にぶつかり、家々の屋根にぶつかり、きゅっきゅっきゅうという音がします。この音で、毎年、花火大会の後には屋根瓦が数センチくらいずれると怒っていた人もいますが、それはその人が屋根に登って花火を見ていたからだと思いました。

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