展覧会パンフ

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古山恵一郎
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湖国の中心地

村櫛の船付き場跡に干拓記念碑が立っていました。南部干拓ではなく、村櫛の集落東側に関するものだと思います。何げなしにその碑文を読んでみて茫然としてしまいました。いきなり「強兵のみが富国の道ではない」と宣言しています。そして「富国の道には色々と有るけれども、古来我が国は農を本としてきた。」と続きます。その後に耕地を南北庄内村の採藻入会(村櫛は応永の津波以前に村があった場所として、現在の南部干拓地付近に広大な地権を持っていました。そこでとれる海藻は化成肥料以前には主要な肥料のひとつでした。)でもある湖面に拡げるため、多年にわたって話し合いを続け、干拓事業の竣工に至った経緯が述べられています。日付は明治39年12月1日。日露戦争講和の翌年に当たり、勝利したはずの戦争から来る国力の疲弊によって、世情が騒然としていた時期に当たります。戦時下、おそらく「戦争より干拓だなど、非国民だ。」位には言われながらも、干拓の大事業を完成させたのであろう先人の決然とした心持ちがしのばれます。

現在の日本の繁栄が、太平洋戦争後47年の長きにわたって戦争に巻き込まれることなく経済発展に専心できたことの賜物であることは、人々の認めるところでしょう。海外派兵だか、海外派遣だかによって国の未来を新たな地平に進めるために国会が徹夜の審議をしているおり、こうした先人の正気に触れると気持ちが引き締まります。 干拓地、あるいは養魚場の未来についてもまた、このような先人によって長年にわたり積み重ねられてきた営みをないがしろにする様なことだけは許されないと思います。




 明治23年
(明治23年測量大日本帝國陸地測量部二万分一地形図「舞阪」「新居」より)


 大正6年
(大正6年測量大日本帝國陸地測量部二万五千分之一地形図「新居」より)


 平成2年
(平成2年測量国土地理院1:25,000地形図「新居町」より)
水産業には産業としての生産性だけでなく景観などの環境に対するチェック機能も期待できます。東京のウォーターフロントは昭和37年の漁業権放棄によって再現不能なところまで壊滅してしまいました。
浜名湖の水上交通の中心地として賑わった船付き場の現況です。かってその地理的好条件が巡航船の母港としても村櫛に繁栄をもたらしました。 中央に見えるかってののバス車庫付近が巡航船の船付き場ではなかったかと思います。 村櫛地域の歴史的空間のかなめとして重要な場所ですが、写真に見るような道路橋の配置、デザインはその重要性を認識しているとは考えられません。
現在の公民館南側に残る旧小学校の石垣は知波多石を使っていますが、普通に見られる野面積みではなく、よそでは見ることのできないハツリ組で仕上げられていることからも当時の繁栄が伺われます。
集落内には 写真に見られるような生垣その他のグリーンが豊富です。大都市の人か見ればばこんな贅沢はありません。 けれどもこうした村櫛の景観は田舎のノンビリしたところで自然にそうなったのではありません。応永の津波によって現在の地に移村して以来、限られた土地にいかにして快適な環境を造りだすかという先人の英知の結晶です。



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