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展覧会パンフ おねがい 細江 三ヶ日 入出 鷲津 新居 舞阪 雄踏 村櫛 佐鳴湖 このページは 社団法人 静岡県建築士会 浜松支部 が1992年に行った 移動役員会配付資料の コピーです。 「浜名湖の立面図」 のデータCDは 社団法人 静岡県建築士会 浜松支部 でお分けしています。 お問い合わせ下さい。 このページの担当 古山恵一郎 〒430-0946 浜松市元城町109-12 tel: 053-453-0693 fax: 053-453-0698 e-mail: ask@tcp-ip.or.jp http://www.tcp-ip.or.jp/~ask |
湖国の中心地 村櫛の船付き場跡に干拓記念碑が立っていました。南部干拓ではなく、村櫛の集落東側に関するものだと思います。何げなしにその碑文を読んでみて茫然としてしまいました。いきなり「強兵のみが富国の道ではない」と宣言しています。そして「富国の道には色々と有るけれども、古来我が国は農を本としてきた。」と続きます。その後に耕地を南北庄内村の採藻入会(村櫛は応永の津波以前に村があった場所として、現在の南部干拓地付近に広大な地権を持っていました。そこでとれる海藻は化成肥料以前には主要な肥料のひとつでした。)でもある湖面に拡げるため、多年にわたって話し合いを続け、干拓事業の竣工に至った経緯が述べられています。日付は明治39年12月1日。日露戦争講和の翌年に当たり、勝利したはずの戦争から来る国力の疲弊によって、世情が騒然としていた時期に当たります。戦時下、おそらく「戦争より干拓だなど、非国民だ。」位には言われながらも、干拓の大事業を完成させたのであろう先人の決然とした心持ちがしのばれます。
現在の日本の繁栄が、太平洋戦争後47年の長きにわたって戦争に巻き込まれることなく経済発展に専心できたことの賜物であることは、人々の認めるところでしょう。海外派兵だか、海外派遣だかによって国の未来を新たな地平に進めるために国会が徹夜の審議をしているおり、こうした先人の正気に触れると気持ちが引き締まります。
干拓地、あるいは養魚場の未来についてもまた、このような先人によって長年にわたり積み重ねられてきた営みをないがしろにする様なことだけは許されないと思います。
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