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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて


2. 千石船


図2-1 寛政頃の上方千石舟

海の東海道を考えるのに際して、明治以前の我が国における海運、 港湾の様子は現代人の我々が想像するものとはかなり様子が違っているものだと思われる。 先ず、船自体について考察しておく。戦国時代には軍船、商船の区別が無く、 帆漕両用だった和船は江戸時代に入り、米の大量長距離輸送が発達するにつれ、 17世紀始めには帆走専用の沿岸長距離物資輸送に適した船型をほぼ完成した。 江戸時代を通して海運に使用されたこの船は、 図ー1、図ー2に示すような弁才船と呼ばれるものであった。 遮浪甲板を持たず、外洋航海に適していないことから海外との交易に使われることは無かった。


図2-2 同上断面


表2-1 廻船の深さ
石井謙治/近世の水上交通・海洋技術より
甲板が無く、外洋航行に適さない弁財船

これを一口に「千石船」と呼ぶのは船の大きさにかかわらず、 殆どその形が変わらない相似型をしているためであるが、 江戸、上方を結ぶ城米廻船では19世紀当初には1600石から2000石積みの大型船が就航した。 しかしこれは秋田から津軽海峡をまわって江戸へ、新潟から下関をまわって大阪へというような長距離を、 城米という単一の積荷を運ぶときに限って効率の良い運用法であった。

様々な積み荷を短期間の内に運ばなくてはならない一般商業輸送には、 積み込みに「晴天12日」といった時間が掛かる大型船は適していない。 隻数からは千石以上の船は数パーセントに過ぎず、殆どが300石以下の廻船であったと考えられる。 スピードで菱垣廻船を圧倒した樽廻船も、200石ないし300石積みの船で始められている。 当時の廻船には現在のボージョレ・ヌーボーと同じく、 灘酒の新酒を運ぶ「新酒番船」と呼ばれるレースがあったことも知られており、 寛政2(1790)年の新酒番船は灘・江戸間を58時間で結ぶまでになっていた。

雑貨に適した百石ー二百石積み船

静岡県は江戸と大阪の中間に位置し、同時に秋田、新潟といった米の単作地帯に比べ、 農業においても商品作物の生産が早くから発達した地域であることからも、 1000石以上の大型船が余り必要とされなかった地域であることがうかがわれる。 静岡県内と、富士川を下った甲斐国各藩の城米、あるいは天竜杉といった単一、 大量の積み荷を扱うには1000石を越える大型船が建造された。

しかし近代工業のような大量生産のなかった時代、それ以外の流通経済の主体は小口雑貨の輸送であった。 伊豆における「清水イサバ」、関東から名古屋までに就航した吉豊丸のような相良船、 「江戸の流行りを何時でもすぐに」運んだ掛塚湊の廻船の多くは、 300石以下の「小廻し船」とよばれるものが主流であり、こうした船が当時の物流の主役であったと考えられる。

表ー1に積載量ごとの弁才船の深さを示す。満載吃水はこの深さより1尺内外を減じたものなので、 ほぼこの寸法が満載時に航行可能な水深と考えられる。