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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切


「皇國総海岸圖 第八 遠江洋 三河 尾張 志摩
鳥羽津」



海図 第 号


榑木の例

5. 遠江の湊

5-1. 東海の難所

遠州地方においても、例えば古墳に見られるように上古の人々の暮らしは、 洪積台地と沖積平野の境目を中心に繰り広げられていたことが解かる。 そこから「白砂青松」の海岸線まではさらに長い年月を掛けて開発されなければならず、 遠州灘は長く東海の難所として有名であった。延元3(1338)年、東国に向かった南朝の水軍が難船し、 宗良親王の御座船が漂着したと言われる「遠州白羽の湊」がどこであるかについても、 各説があって定まっていない。

遠州には上方における瀬戸内海、江戸における江戸湾という沖積み、 沖取り荷役を容易にした内海が無かった。遠州灘は江戸、 上方の廻船からは実際の里程が五十五里であるにもかかわらず、 「七十五里」と言い習わされる「東海の難所」であった。それを代表するのは「沖ノ御前」の燈明であり、 当時からめざましい発展を見せていた静岡県の産業を支える小廻し船と、 その母港となった湊も「避難港」として、「東海の難所」の影に隠れた存在でもあった。

5-2. 川口の湊

こうした遠州の湊が本格的に整備されたのは幕藩体制が固まり、 江戸廻米が我が国の政治・経済体制の根幹とされて以降であろう。 各藩は年貢米の集荷・積み出しの最適解を求めて各湊を整備した。 西遠における掛塚湊、中遠における福田湊、南遠における相良湊、川崎湊がこれである。 いずれも流域に相応の石高を持つ川口にあり、遠浅で砂で埋まることがあるものの、 上方・江戸の中間という地の利から、 100石乃至300石の小廻し船による廻漕に不自由しない湊として繁栄した。

同様の中小河川であっても菊川川口が整備されなかったのは、 上流域に稲作に適さない台地が広く、産米石高がそれほど期待できなかったことによるものであろう。 弁財天川は当初横須賀藩によって整備されたが、後には前川の整備によって福田湊にその役割を譲っている。

江戸廻米は水田稲作の水利と重ねられたことから、 当時の治水技術では農業用水には滴さなかった天竜川、 大井川にあって、年貢米の集荷は主に近隣の中小河川を利用していたものと考えられる。 これらの河川ではそれに代わって上流からの材木の積み出しが行なわれ、 福田湊、川崎湊にあっても秋葉山を中継地とする信州との交易があり、 「川の道と海の道の交差点」としての機能がうかがわれた。

遠州のこれらの港はいずれも川口に立地しており、流砂の対策が常に悩みの種であった。 河口の水深が2-3尺では、港湾として機能するのだろうかと考えがちである。 しかし当時の湊は現在とはかなり違ったものであり、特にその港湾荷役の方式に、注意する必要がある。 江戸時代の港湾荷役の方法は、前ページに見たように、 現代行なわれている近代的な岸壁に船を接岸して行なう港湾荷役とは、かなり違っていた。 「皇国総海岸図」には、2000石級の廻船が母港としていた湊でも、 泉州堺の式島湊では「深五六尺大船空舩ニテ出入」、 兵庫湊では「川脇ヨリ深四五尺」とある。 満載喫水10尺を越える2000石船が水深わずか5・6尺の堺湊を母港としていたのは、 当時の湊が沖積み、沖取りを前提にしていたからである。 遠州の川口の湊も、当時にあっては立派に、地方重要港湾としての役割を果たしていた。

5-3. 遠江の特産物と物流

豊富な資源と共に天竜川と言う河川舟運路に恵まれたこの地域は、 古くから領主層の注目するところであった。 寛政6年には外洋を通るよりも江戸、大阪へ安全に、 早く届けられることから、信州、越後の米を天竜川から掛塚に下したい、 という願いが江戸の廻船問屋から出されたが、川筋の反対で実現しなかった。

江戸時代における遠州の特産物、物流を考えるうえで特筆すべきは天竜川流域の木材である。 徳川幕府により、上流の伊那谷、遠山谷では、周辺から豊富に産出する杉、 椹等の木材を「榑(くれ)木」として製材し、年貢米に代えて納める「榑木成村」が指定された。 図に見るような寸法に指定された榑木は日を限って信州から天竜川に落とされ、 天竜市船明(ふなぎら)と対岸の日明(ひやり)の間に張られた綱で留められると、 筏に組んで掛塚に運ばれ、廻船で江戸に送られたのである。 年貢としての榑木以外にも天竜川の杉は江戸の街の発展と共に、 あるいは灘の酒造業が盛んになり、 江戸送りに必要な樽の原料として紀州杉の値が上がる元禄以降需要が拡大した。 伊勢から杉檜の苗木がもたらされ、大規模な植林が始まったのも元禄時代である。 現在の白倉国有林を初めとする幕府御林も多く、 度々の江戸城炎上に際しては天竜川筋にも御用材が求められた。

亨保11(1726)年榑木が金納に代えられると、 天竜川筋の材木流通は江戸を初めとする各地の材木問屋の手に委ねられた。 屋根材の遠江柿(こけら)板は19世紀初めには既に特産品として有名であった。 川口の掛塚湊はこうした天竜材の出荷基地であり、 かって天竜材で江戸のまちなみづくりに貢献したこの地域は、 現在も木材加工、楽器等にその伝統を受け継いでいる。

物流と共に情報流通から見ても、 材木流通の基礎データである全国の火災情報は、天竜川筋の村々では驚くべき正確さで捉えられており、 廻船による情報と共に、秋葉山に集まる修検者の情報との関連も指摘されている。