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3. 江戸時代の港湾施設
次に当時の港湾がどのように運営されていたかを「江戸名所図会」から参照してみる。
地方の港湾は規模が小さく、機能が簡略であっても、基本的な港湾機能はこのようなものであったと考えられる。
「高橋の南詰にあり。鎮坐の由来詳ならず。この地は廻船入津の湊にして、
諸国の商船普くこゝに運び碇を下ろして、この社の前にて積む所の品を、悉く問屋へ運送す。」
高橋は永代橋下流を日本橋に向かう亀島川口にある。
正面右に見えるのが石川島、現在のリバーサイド21である。
吃水一尺ないし二尺の小舟に積まれた荷物は、水路を進んで日本橋をくぐる。
荷物を積んだ舟は全て川上に向かっているのに注意したい。日本橋の賑わいは、
繁華街と物流ターミナルが、陸上と水面に垂直分離され、重なっていることから作りだされた。
フィッシングボート、水上カラオケクラブも輻輳している。
堀留は日本橋の中央に位置している。番所を通って外へ抜けるもの以外、
全て河岸地に建てられた専用倉庫に直結した桟橋になっている。
それも大掛かりなものではなく、小舟専用の簡単なものである。
桟橋さえ無い場合もありうる。舟から河岸に板一枚渡せば灘の生一本が蔵に入る。
これは隅田川対岸、霊岸島の酒問屋。清酒運搬船の尻はしょりに対して、
手前の舟は着流しで運航しており、物流とレジャーが混在していることをうかがわせる。
重要な点は当時の廻船は現在の貨物船ような形で接岸することはなく、沖に停泊した廻船から小舟で荷物を河岸まで運んだ点である。
遠州の湊では「潮ニテ詰深二尺」となってしまうので、湊の中にこうした舟溜を作れなかった。
それにもかかわらず「湊内深ク空舟ハ百艚ホト容ル」とあるのは荷積み前、
あるいは積み荷を沖取りした後の廻船が、湊に入って風を待つことも重要だったと考えられる。
日本橋では物資は蔵に向かっているが、地方の湊では蔵から廻船に向かう物資が多かったであろう。
特に年貢米では蔵に入らず、小舟で川筋を下り、直接廻船に積まれる荷も多かったと考えられる。
水運物流基地を「海岸」でなく、「河岸」と呼ぶことからもこれが解かる。
こうしたシステムでは大規模な港湾施設は全く必要無かった。日本橋堀留でさえ図のような簡単なものであった。
日本橋の魚河岸は有名であるが、他にもさまざまな形で消費者が物流システムに親しむことが出来た。
例えば四斗樽自体が廻船輸送の荷扱いのためのものであるが、
それに印刷された清酒のブランドは、「新酒番船」等と称して江戸に津入りした商品が、
橋の上等からでも良く見えるための工夫である。
こうしたスピードを尊ぶ商品は蔵に寝かせないで、
直接小売業者、飲食店等の手に渡り、「灘新酒」として楽しまれたのであろう。
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