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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田


日本沿岸の海流模式図

4. 伊豆の湊

黒潮文化圏

日本の太平洋岸、九州南端から四国、紀伊半島を経て伊豆半島、 房総半島へ至る一帯はクスやタブ等の亜熱帯植物が多く分布している。 植生以外にもこの地域には地名、神社の祭神、風俗、 方言などにも多くの共通点があり一つの黒潮文化圏を形成している。

古来より南は遠く南洋諸島や琉球から、 北は陸中海岸や北海道からも海流に乗って伊豆半島に渡来者があったと言えわれている。 彼らは漁獲や航海の技術にすぐれ、日本の国家成立前より自由に海上を往き来し、 地域間交流を行ってきた海の民、海人族である。

紀州沖から伊豆沖に北上する黒潮は、 伊豆半島の先端にぶっかり交流を発生させて西海岸に沿って北進するため、 古くから石廊崎や西海岸は航海者の上陸地点ともなった。 伊豆の漁民の間に『一棹三里』ということばがあるが、 黒潮にうまく乗ると、一棹で三里(約12km)も進んでしまうという意味である。 反対に押し流されることは死につながっていたので、高度な航海術が必要とされたのであった。

黒潮と並んで、季節風も古来より海上交通に重要な役割を果たしてきた。 夏は南または東の風が吹き、海もおだやかなので安全に航海ができ、 東進するときは黒潮に乗り、西進するときは東南の季節風を利用して昔の船は往き来を行ったようだ。 冬は北西または西の強い風が吹くと、海が荒れて冬期の航海は決死の覚悟が必要だった。

伊豆のリアス式海岸線は多くの入江をもっていて、東西を往来する船の遊難港、補給港として、 近世まで物流幹線の結節点の一つでもあった。



縄文時代の刳船
静岡市大谷川改修工事での出土状況


縄文時代の刳船
静岡市登呂遺跡出土品

「静岡県の海」
静岡新聞社 
より

古代伊豆の造船と海運

古代の船は大木をくりぬいた丸木船であったため、 船材となるクスノキやタブなどの大木の自生する伊豆半島では、 大きな丸木船が作られた古い記録がある。 『皇年代記』に「崇神天皇14年、伊豆より大船を貢納す」という記事があり、 これが伊豆における造船の最古の記録である。 それ以前、弥生時代にも登呂遺跡から出土した石が伊豆産のものであり、 丸木船で西伊豆と交流があったことがうかがえる。 さらに「日本書紀」には応神天皇が伊豆の国に命じて巨船をつくらしたとある。

「五年の秋八月庚寅の朔壬寅に、諸国に令して、海人及び山守部を定む。 冬十月に、伊豆国に科せて、船を造らしむ。長さ十丈。船既に成りぬ。 誠に海に浮く。便ち軽く泛びて疾く行くこと馳るが如し。故、基の船を名けて枯野と日ふ。」

「枯野」は難波の津へ曳され、天皇が使う清水を汲むために26年間就航した。 天皇は老朽化した「枯野」を薪にして塩を焼かせ、 この塩をあまねく諸国に下賜せしめ、一艘ずつ船をつくり献上させたという。

大和朝廷の勢威を誇示する興味深い物語も残っている。 この長さ十丈(約30m)の巨船「枯野」が建造された地は、 天城湯ヶ島町の軽野神社付近と伝えられていて、 枯野→軽野→狩野と転訛したものだともいわれている。 また万葉集巻二十の大伴家持の「伊豆手の船」の歌があり、 伊豆でつくられた船の性能がすでに中央でも知られていたことが想像され、 伊豆と近畿地方が密な海上交流が行われていたことも推定できる。



安宅船
肥前名護屋城図屏風 佐賀県立博物館 蔵



関船
船の科学館 蔵



小早
船の科学館 蔵


伊豆水軍

伊豆にも古くから入江を根拠地に、海域で漁をしたり、 回遭業務をして細々と暮らしている海人族がいた。 しかし、彼らの中には略奪などの海賊行為に出る者もあり、 武家社会になると、武装集団としての実力をたくわえるようになった。 伊豆の海賊衆は浦々に縄張りをもち、寄港する船や沖合を航行する船から、 水先案内料や通行料を得ていたが、時には年貢等の輸送の海遭業務で、寺社や領主から雇われることもあった。

水軍の発生

戦乱の折には彼らは水軍としての行動力を買われて、臨時雇の兵ともなった。 源頼朝の挙兵や足利の武蔵野合戦にも、伊豆海賊衆が多く参陣している。 延得3年(1491年)北条早雲が伊豆の領主となると、西伊豆の海賊土豪たちは北条氏に臣従するようになる。 中でも土肥の富永氏、田子の山本氏、雲見の高橋氏は北条家と姻戚関係を結んだ。

北条水軍

北条水軍の保持していた軍船は安宅船といい、 50梃櫓、100人乗りの大型船で、大砲を1門積んでいたという。 西伊豆沿岸の諸村では四板船と称される快船が建造されていたが、 このように足の速い船は一般に「関船」と呼ばれていた。 関船は安宅船より1回りか2回り小型の軍船で、安宅船と同じく総矢倉造りであった。 関船より小型で半矢倉を持つ軍船は「小早」と呼ばれた。

伊豆の入江を根拠地とする土豪が割拠するようになり、 彼らは水軍を保持し、活発な活動をしていたところから、 「海賊衆」と呼ばれた。大型水軍時代を迎えると、旧式の小規模な海賊城では、 水軍の根拠地としての機能が果たせなくなり、 内浦長浜城、八木沢丸山城、下田城の三城を、本格的な大型水軍基地として整備拡大していった。



イサバ
瀬戸内海歴史民族資料館 蔵



江戸時代後期の弁才船
船の科学館 蔵
江戸時代の海運と廻船

江戸時代はそれまでの日本史上でも最も海上交流の盛んな時代であった。 江戸時代の水運は各大名領や天領で生産された米を江戸や大阪に搬送し、換金する必要から発達した。 東廻りと西廻りの航路の開発は全国規模の海運ルートを築き、帆船による物資の大量輸送時代が始まった。 特に天下の台所が大阪から江戸に移り、上方商人は競って物資を江戸へ急送するルートを開発し、 千石船で名高い紀国屋文左衛門のような豪商が誕生するようになった。 また、江戸市民の台所に近いという地の利にあった伊豆にも、必然的に豪商が誕生していった。 海上交通の一大発展期を迎え、伊豆は東西交通の要地として、 江戸と上方を運ぶ海運の寄港地、廻船の日和待港として賑わうのである。

江戸時代に伊豆でも活躍した船

伊勢船

15世紀頃から伊勢大湊を根拠地とし、 古くは諸国に散在する大神宮領の年貢を船ぶ船首が戸板造りの大型船で、 伊豆にも進出し、江戸時代中頃まで活躍した。

イサバ船

江戸時代に活躍した船の一つで、小廻しの廻船。 およそ百石積み程度の船で、海産物を主に運び、舟形は弁財船を小型にしたもの。 伊豆では水産物の他に薪炭や日常雑貨を運ぶ船として活躍した。

弁財船(千石船)

それまでの伊勢船や二形船に代わり江戸時代の海運の主力となる。 特徴は櫓を漕ぐ水夫を不要とした帆走専用船で、 中でも有名なのが大阪、江戸を結び、米、酒、雑貨を運んだ菱垣廻船や樽廻船である。
伊豆の湊へも各地から著名な廻船が来港し、特に北前船では夏には西廻り航路を取る船であっても、 冬には西風を避けて東廻り航路を取ることがあり、 この場合、伊豆の湊は日和待ちの為に重要な役割を果たした。 他にも多くの廻船が水運の発達と共に伊豆の各湊で活躍した。

押送船おしょくりせん

伊豆から江戸の魚河岸へ、鮮魚や生鮮農産物などを海送するために用いられた。 船足が早くするため、松材から檜材に軽量改造され、 船型も流線型に造られた軽快に走る早船。
帆走柱も用意され、それまで木更津船、三浦船に限られていた江戸の魚河岸へ帆を使い、 海子3人が櫓をこいで、魚を運んだ。年貢米や温泉を江戸城大奥に海送した記録もある。


日和山

文字どおり日和を見る。すなわち天気予報のために登る展望の良い山で、江戸時代の海洋気象台である。 江戸時代から明治時代まで物資輸送の主役を果たしていた廻船の船頭や、 船宿の主人によって、出港の適否を判断するための観天望気が行われた標高100m以下の展望の良い山で、 伊豆でも各地の日和待港の入江近くに見られる。風の向きを見るための方角石が残っている所もある。

浦方略絵図

南伊豆町の妻良公民館には江戸時代の海図である「浦方略絵図」が保存されている。 現代の目からは伊豆の南端で、主要交通路から遠いところであるが、 廻船が我が国の主要物資輸送手段であった時代には、湊は同時に先端情報の結節点でもあった。



伊豆の特産物と物流
水産品及水産加工品

漁業は交換を前提として成立する。したがって、漁民は交換や販売を通じて町や農山村と交流を持つ。 伊豆では近海に好漁場を持ち、漁業が古くから発達し、駿河や遠州、江戸方面、遠く上方や伊勢、信州にも水産加工品が運ばれた。 カツオ、マグロ等の高級鮮魚は押送船の発達で、東伊豆から江戸まで早ければ一日で着いたという。 主要な漁村には、漁船の他にイサバ船やヤンノー船など商船をもつところが多く、 そういう中から、沼津や網代、松崎、下田のような集散地が形成された。

カツオ節

戸田・土肥・宇久須・田子・松崎・子浦(江戸や伊勢、上方へ)

天草

子浦・妻良・下田等の伊豆半島南端(信州や甲州へ)



伊豆石

伊豆石は初期の頃は江戸城や駿府城の築城石として、距離的に近く、 海上輸送ができる地の利から、伊豆石(凝灰岩)が伊豆の東海岸一帯から切り出され、石船で運ばれた。 
さらに江戸が世界第一の都市にふくれあがると、江戸の需要にこたえるため、 運搬に便利な伊豆各地の海岸線の石山から伊豆石が切り出された。 遠州への帰り船の重しとして伊豆石が積み込まれたともいわれている。 伊豆石には白石と青石があり、白石は耐火性に優れるためカマド等に使われ、 青石は家や倉の土台や内外装材に使われた。

伊豆炭

幕府直轄林では紀州から技術を導入して製炭が大量に行われ、 天城御用林で御用炭として焼かれた炭は年間数十万俵だったという。 伊豆炭は火力が強いため、江戸城のみならず、増大した庶民の需要にもこたえていった。 山方の百姓にとっては農閉期の副業として、格好の現金収入の手段であった。 松崎港や下田港から大量に出荷された。