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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田


開発されない港周辺は昔と変わっていない。


川奈港から川奈崎を望む。

4-2. 川奈湊

1.所在

伊豆半島の東岸、汐吹崎から半島の最東端である川奈崎(神崎)の間に広がる湾の一番奥に位置している。 国道135号線から東に入り、伊東線川奈駅前をリゾートマンションの多い坂道を下る。 途中、富戸方面への道から分れて狭い急坂を下り、行き止まりが川奈港である。 (川奈村は明治22年の市町村制により、4区の合併で小室村となる。 小室村は明治22年伊東町と合併して伊東市となった。)

2.地形

太平洋に突き出した川奈崎が自然の防波堤としての役目を果たし、川奈港を太平洋の風波や潮流から守っている。 また、西と南の急峻な山地が冬の西風を防ぎ、日和待港として、昔から廻船や漁船が寄港する天然の良港だった。 現在も港周辺は開発されないで昔と変わっていないが、山の上の方にはリゾートマンション等の保養施設が目立っている。

3.沿革

港弘長元年(1261年)日蓮が伊東に流罪になったとき、 日蓮を助け身の廻りの世話をしたのは、川奈の漁師「船守弥三郎」だったという。 源頼朝が伊豆に配流の身であったとき、川奈村はすでに約60戸の家があり、 全戸が協力して漁業や港造りや村の諸事 を行っていたと伝えられている。 昔の「神崎」は相模の「三浦崎」と安房の「洲崎」と 共に三本の要として相模湾の三崎といわれていて、 多くの廻船や石船、漁船で賑わった。

川奈崎には江戸時代の初期、寛永7年(1630年)には、灯油を燃料とする湊明堂が建設され、 近海航路の要衝として、村民が毎夜当番で管理した。 川奈港からも江戸城築城の石材が毎月2回積み出されたという。 江戸時代末期には、湊明堂の南方に、幕府が外国船に備えて設置した、御台場(砲台)が建造された。 漁業も昔から盛んであったが、江戸時代にはカツオ、マグロ、サンマ漁が主で、 川奈で獲れた魚は、廻船や押送船 で小田原や江戸に運ばれた。

  文政年間(1820年頃)に伊豆へ根拵網が伝えられると、 川奈村は「村網」という形で、村全体で費用を出し経営するようになり、 根拵網の成功は漁獲高の急増をもたらした。 明治21年頃より、川奈の持つ地形を巧みに利用して、イルカの追い込み漁が完成し、イルカ漁で有名になった。 漁船の動力化、大型化により、沿岸漁業から沖合漁業へと発展したが、 豊かな漁場が近くにあるため、遠洋漁業へは発展しなかった。
マグロの延縄漁業や定置網漁業は伊豆では有数で、 漁船の優秀な乗組員の他港への供給地ともなっていたし、漁協の歴史も古い。 最近は漁獲量の減少、高令化、後継者不足で、昔ほどの賑わいはなく、農業や観光との兼業化も進んでいる。


大日本帝國陸地測量部
明治19年測量、明治25年刊
二万分一地形圖「網代村」より

国土地理院
平成元年改測、平成2年刊
1:25,000地形図「網代」より