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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて


監修のことば

静岡県下にはかって東海道五十三次の宿場中二十二の宿が置かれ、 これらの宿駅の機能を発揮する中で、それぞれの地域は発展してきた。 しかし東海道五十三次の機能には限界があり、 年々巨大都市への歩みを続ける江戸への物資の輸送は菱垣廻船、 樽廻船等の名に象徴される海上交通の発達が、東海道の交通を補完していた。

菱垣廻船、樽廻船等々の海上交通は帆走船が主力であったから暴風雨等には弱く、 その安全を確保するためには、陸上の村々の絶対的協力が必要であった。

こうした安全確保のため湊が発達し、ある時は避難の湊として、 またある時は日和待ちの湊として、湊の機能を整備しつつ栄えていった。
 また湊の発達は見られなくとも、廻船の座礁する危険の予測される御前崎などには、 そうした場所を夜間航行する廻船にその位置を知らせる燈明臺が作られたり、 また南伊豆にあっては湊の所在を知らせる湊明堂がつくられたり、 更には日和待湊には日和山と命名される山があったり、 そのその山頂には観天望気のための方角石が置かれるなど、 海上交通はそれなりにシステマティックであった。

静岡県建築士会は、先の東海道二十二宿の街並調査等に非凡な成果をあげてきたのであるが、 これに引き続き東海道歴史のふるさとづくりにかかわり、 海の東海道にかかわりのある調査を依託され、静岡県建築課の指導を得ながら、 精力的に調査研究を実施した。

近代になり船舶の構造や機能が高まると、かって栄えた日和待湊など年々寂れ、 かっての面影は失いつつある中で、建築士の皆さん方はそうした中から多くの文化を発見し、 貴重な歴史を見出そうとした努力には、本当に頭の下がる思いであった。 湊によって栄えた集落をかっての姿に復元するなど不可能に近い。 しかし昔も今もあまり変わらない風景と、 そうした風景に囲まれたたたずまいをどう再生しようと考えたのか。 この調査を通じて建築士会の皆さんが到達しようとしている、 建築文化というものを垣間見ることができるものとして注目され、 こうした視点で建築士会の皆さんが、地域の歴史、 地域の文化に多彩なご提言をいただけるならばと、御期待を申し上げる次第であります。

平成5年3月15日 

静岡学園短期大学

学長 若林 淳之