5. 駿河の湊
清見潟 三保の松原 浮き島が雲の 愛鷹山や富士の高嶺
というのが謡曲「羽衣」に謡われる、我が国を代表する自然景観である。
富士川の合戦が象徴する武士階級による全国統一は、江戸時代にも「富士の巻狩」の形をとって常に検証されてきた。
ここに謡われる山が日本を代表する富士山であるのと同様、駿河湾の景観は長い間、我が国を代表する海岸の景観であった。
駿河湾と河川
我が国で最も深い水深を持つ駿河湾は古代人にとって安全な暮らしを守る海でもあり、登呂遺跡に見るように、駿河湾周辺は農耕文化と共に急速に開かれていった。
また駿河湾においても河川の果たす役割が少なくなかった。
伊豆の「枯野」伝説と同様、「安部川上流から直径3尺の流木が流れてきたので、使いをもって朝廷に知らせた。」
「秀吉の朝鮮征伐に際しては大井川の河口で大船が作られた。」等として、森林資源の集積も古くから着目されていたが、
これも河川だけでは成り立たず、それらの河川が流れ込む駿河湾を前提に初めて利用できるものであった。
頼朝の流された「蛭ヶ小島」も、絶海の孤島ではなく、狩野川沿いの「島」であることが知られているが、
これも当時の水軍が海に続く川をもその活動範囲としていたことによるものであろう。
駿府と清水湊
「安部の市」は奈良時代には既に始まっていたとされるが、これも当時安倍川の河口となっていた巴川沿いに有ったものとも考えられる。
今川氏以降の領主達はいずれも清水を軍事上、経済上の重要港湾と考え、徳川氏も清水を駿府の湊として整備した。
駿府城の造営に当たっても清水湊に「御用材積場」が設けられ、各大名も清水に蔵屋敷を持つに至った。
志太平野にあっても米、その他の産物、あるいは大井川周辺から産出する木材、
木材加工品に到るまでが黒石川等の中小河川沿いに城之腰から清水に向けて出荷され、江戸に送られたことが知られている。
富士川と甲州
富士川についても幕府は慶長12(1607)年より角倉了意に命じ、甲州廻米の輸送路として整備した。
寛永期(17世紀前半)より甲州の鰍沢、黒沢、青柳の3河岸から高瀬船で下ろされた年貢米は、
岩渕に揚げられると蒲原から小廻船で清水に送られ、江戸廻船に積み込まれた。現在も清水市には甲州御廻米蔵の跡が山梨県所有地として残されている。
これらの高瀬舟の帰りには茶、みかん、魚、上方酒等の荷が積み込まれたのが、重要なのは塩であった。
当初は地元で産出した塩が、また清水湊が大廻船の中継基地としての役割を拡大して後には瀬戸内海から運ばれた塩が甲州へ送られた。
灘酒が紀州の杉で作った樽に詰められ、船にゆられて江戸に着いて味わいが出来るのと同様、伊豆の鮑も醤油に漬けてイサバで岩渕に送られ、
高瀬船と馬の背で甲州までゆられ、初めて水貝の名物となりうるのである。
東部の河川
急流の難所である富士川が整備されるのと同様、「浮島ヶ原」として広がっていた岳南の低湿地も次第に開発され、
この地域からの米は鈴川、潤井川河口の吉原から清水へ津出しされたであろうことが明治20年の地図から分かる。
狩野川では沼津湊が文字どおり狩野川の河口にあって、流域の川舟のターミナルであるのに対し、
隣接する江の浦が大型廻船にとって荷役期間中の風除けの最適地として活用されたであろうことがうかがわれる。
現代の姿
江戸時代を通じて駿河湾は江戸、上方の間にあって大型廻船が安全に寄港し、荷扱いを出来る貴重な地域であった。
特に清水港は折戸湾の地形に恵まれており、駿河のみならず、
遠江、甲斐、伊豆から小廻し船で運ばれる物資を江戸廻船の大船に積み変える中継基地として繁栄した。
清水港は明治以降も産業の近代化と共に国際貿易港に姿を変え、静岡県の産業を支える重要な役割を果たし、さらに発展しようとしている。
しかし、かって物資輸送と共に文化、あるいは情報流通をも通じて駿遠豆甲を結び付けていた小廻し船や高瀬船等の川船は、
東海道鉄道開通後、次第にその役割を近代的交通手段に譲り、遠江、伊豆同様、駿河においても現在では殆どその姿を見ることはない。
日常生活において普遍的な文明に恵まれることを実現した我々にとり、
次に求められるのはかって駿河を初め静岡県の湊々を結んで地域的な文化、
情報流通のネットワークを形成していた小廻し船に代わる「現代の小廻し船」であろう。
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