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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
5-1.江の浦 5-2.沼津 5-3.吉原 5-4.清水 5-5.焼津


5-3. 吉原湊

5-3-1.所在

愛鷹山より発し、浮島を経て下流する沼川と、富士山西麓より発する潤井川、和田川の合流点に位置していたといわれている。 吉原湊は小須湊とも呼ばれた時期があり、吉原宿の所替えにともない、湊も変遷してきている。 今日、吉原宿も、吉原湊もその形跡を偲ぶものはあまり残っていない。 しかし、かつての湊の跡地に掘込式港湾・田子浦港が37年に完成し、田子浦港にその歴史が引き継がれている。

5-3-2.地形

17世紀末頃までは、富士川の流れも吉原湊に流入していたため、河口の状況が良く、輸送ならびに交通上重要な役割を果たした。 その後、富士川が西の現在の流路方向に転じたため、水勢が著しく減退、湊口の状況も悪化して、 大津波の来襲や台風による土砂で港口の閉塞が繰り返されたため、港口の維持が困難になり、港勢は衰微の一途をたどった。



沼川の石水門
「浮き島ケ原開拓史」沼川水害予防組合刊 より



明治末期の吉原湊、洋式帆装の貨物船が見える。
5-3-3.沿革

吉原宿は、初め見付宿(1200年頃)から元吉原宿(1554年頃)へ所替し、さらに元吉原宿から中吉原宿(1599年頃)へ、 また中吉原宿から新吉原宿(1681年)へと三度び所替えしている。しかも、その原因は猛烈な砂塵と度重なる津波による 天災であった。 鎌倉時代の初期、湊の東岸に「見附」を構えたのは、今までの根方道や 十里木道を利用するよりも「見附」を通って海岸を進み、 沼津三枚橋を経て箱根に通じる道の方が近くもあり、戦略上も必要であったので、政策として吉原湊を利用させ「見 附」を通行させたと思われる。 室町時代になると、次第に往来が激しくなり、湊としての利用度も高くなった。 しかし、軍船とか交易船などが出入りする湊ではなく単に交通 路、船渡場としての利用であった。 ところが、天正年度以降になると、商港として利用されるようになった。 天正18年(1590年)、秀吉の小田原攻めの時、善得寺再建の資材をこの湊から伊豆へ積み出している。 江戸時代になると商港として脚光を浴びる ようになり、千石船が出入りした。 伊勢船や紀州船などの寄港もあり、廻船から陸揚げされる物資は、瀬戸内海産の塩、伊豆産の石材、遠州や伊勢産の海産物や瀬戸物等が主な物であった。 吉原湊からは木材や木炭、それに年貢米が江戸方面に積み出された。ま た富士道者の旅船の碇泊地としても利用され繁栄した。

和田川、潤井川、沼川は水運が発達し、川船によって上流から年貢米等の物資が運搬され、 下流の合流地点(小須湊)で川船から廻船に積み替えられた。とくに新吉原宿が和田川沿いにあったため、 和田川は運河として飲料源として重要であった。元来、浮島 沼の水位と駿河湾の潮位の差がわずかなので大型廻船は満潮時に入港せざるを得なかった。 また、河川の水が流れにくく、時には逆流して港口が閉塞することもある。 港口が 閉塞されると大津波の来襲によって、田畑に海水が侵入、塩害により作物が大きな被害を受けた。 この苦難から免れるために多くの人々が莫大な費用を投じて防潮工事に挑戦してきた歴史があり、 失敗に終わったが野村一郎の築いた砂防大石堤や渡辺佐一郎による石水門の築造等がある。  

昭和の初期、御成橋附近でも水深が15mあり、こゝから下流にかけては舟運に好条件の適地から、伊豆方面の物資の取引で栄えた。

明治以降も左の写真に見るように、従来の和船に西洋型帆船の帆装技術を導入するなど、様々な近代化が図られたが、 やがてこれら小廻船は東海道鉄道と、汽船に取って代わられた。 

しかし富士の豊富な地下水を利用した製紙、製糸等の産業の発展と共に、昭和32年から近代築港が進められ、 川口の湊であった吉原湊は現在見るような国際港、田子ノ浦港として生まれ変わった。


大日本帝國陸地測量部
明治20年測量、明治35年修正・刊
二万分一地形圖「吉原」「鈴川」「蒲原」「原」より

国土地理院
平成2年改測、平成3年刊
1:25,000地形図「吉原」より