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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
5-1.江の浦 5-2.沼津 5-3.吉原 5-4.清水 5-5.焼津




清水港付近の海況、
海図第80号、海上保安丁水路部(部分)
水深はメートルによる。

5-4. 清水湊

5-4-1.所在

清水港は駿河湾の北西部に当たり、県内の最重要港湾である。 国の特定重要港湾として東名高速道路、第二東名高速道路、東海道本線に接し、東海道新幹線静岡駅までを含む静清広域都市圏の根幹となっている。

5-4-2.地形

左図に見るとおり、清水港は岸近くまで深い駿河湾の奥部を、古有度山が沿岸流によって削った砂が運ばれ、 これによって出来た三保の砂嘴が二重三重に取り囲んで入江を形成している。 こうして形成された折戸湾は、風向きのいかんにかかわらず、良好な船溜まりを形成し、古来、謡曲「羽衣」によって知られるように、 天然の良港として知られていた。日本平から清水湊の向こうに富士山を臨む景観は我が国を代表するものである。 こうした湊の姿は遠州の湊が江戸時代、砂との戦いを余儀なくされたのと対照的である。 また、富士川を下る物資、志太平野から小廻し船でもたらされる物資が大船に積み込まれる姿は、 良港を持ちながら後背地に恵まれなかった伊豆に比べて豊かであり、現在も静岡県を代表する国際貿易港として受け継がれている。

5-4-3.沿革

7世紀後半、斉明天皇の時、百斉援助の為に清水湊周辺で軍船が作られ、万余の軍兵が出発したとの記録もあり、 平安時代には避難港として、戦国時代には今川、豊臣、徳川、の軍有の戦略基地として利用された。 中世には下清水に船付場があったと言われている。今川氏は国府(静岡)に入ると清水を外港として整備した。 巴川流域は安倍川の水をも集めて水郷を形成しており、国府との間を自由に船が行き来していたものと思われる。 現在の入江町周辺が当時の船付場だとされている。今川氏による入江の三日市場、江尻の七日市場により清水湊は地域の経済・交易の中心地となった。 今川氏に替わった武田氏は清水湊を軍事上の拠点として重視し、江尻城、袋城を築いた。 袋城は豊臣氏の小田原攻めにも水軍の基地として使われ、ここに数千の軍勢と兵糧が置かれたという。

清水湊の問屋仲間は事故によって辞めさせられた場合、補充が認められず、
元和元(1615)年42軒
文化10(1813)年39軒
天保13(1842)年38軒
明治元(1868)年19軒
と次第に少なくなった。文化10年の清水湊廻船株仲間は次のとおりであり、 現在も乙仲業その他の業務を通して、昔と変わらず清水港を支えている企業もある。
清水町上1丁目
富士城屋 理兵衛甲州屋 次郎左衛門
摂津国屋 甚左衛門摂津国屋 次兵衛
清水町上2丁目
中田屋 重右衛門升 屋 庄兵衛
加島屋 勘左衛門伊勢屋 仁左衛門
薩摩屋 十兵衛水口屋 万右衛門
大阪屋 太右衛門白木屋 与兵衛
外木屋 兵左衛門播磨屋 清 治
清水町本町
播磨屋 清 助中田屋 善右衛門
播磨屋 清三郎三保屋 庄兵衛
播磨屋 与 平山本屋 清左衛門
柴田屋 平兵衛吉野屋喜左衛門
喜多村屋 伊左衛門三保屋 次郎兵衛
天野屋 惣左衛門播磨屋 初次郎
庵原屋 惣 十松本屋 平左衛門
山本屋 清左衛門和泉屋 左左衛門
吉野屋 六郎左衛門
清水町新魚町
八幡屋 与市兵衛
清水町袋町
天野屋 九右衛門播磨屋 六右衛門
清水町本魚町
八木屋 弥 七十一屋 太郎右衛門
播磨屋 市兵衛十一屋 太左衛門
清水町箕輪町
坪井屋 庄 助

徳川家康が浜松から関東経営の拠点として駿府に移る際には、古くから天然の良港として知られていた清水港の存在もその要因の一つであった。 駿府城御普請の為の、御用木置場が清水港に置かれたとされている。 家康による駿府城の整備ではそれまで巴川に落ちていた安部川の水を南下させて藁科川に合流させることが行なわれ、 これによって水量の減った巴川沿いのそれまでの清水湊(岡清水)から浜清水へと湊の中心が移った。 家康は元和2(1615)年、大阪夏の陣に協力した42軒の廻船問屋に問屋営業の独占権を与えて、同時に御用役として沿岸警備、 海難事務を扱わせて広く清水湊の経営を委ねた。下田から御前崎の間の海難救助、浦賀役所に立ち寄らない船の取調べ、 「駿河小早」を使った江戸、上方までの海運の御用等がこれらの問屋に与えられた任務であった。 これ以来、駿府への米等の物資移入、江戸と上方の間にあって安全な寄港地として清水港は重要な役割を果たして来た。 駿府への米の輸送は巴川を「上土」まで舟で運び、ここの河岸から北街道を馬で運んだと言われている。 清水湊には148,000石の米蔵なども整備され、港湾施設の整った清水港には18世紀からは甲州産米の江戸への積み出し港としても利用されることになる。 江戸時代を通して清水港は駿州第一の港であった。城米に次いで塩も重要物資であり、瀬戸内から駿河と共に甲州、信州へ送られる塩も清水湊を経由した。 塩を運んできた上方の舟は帰りには江戸、房州からの米、水産加工品、干鰮等を運んだ。駿河からの移出品は漆器、シイタケ、竹細工等である。 

御用役を勤める清水湊では、朝鮮通信使が往来するときには富士川に架ける船橋のための船と水主を提供することが求められており、 宿舎となった興津清見寺と共に江戸時代を通じて我が国の公式外交の一端を担っていた。

幕末から明治維新の完成までの時期は清水湊にとっても激動期であった。 慶応4(1868)年3月、駿府に新政府軍が入り、江戸開城の談判が清水湊に陣取った山岡鉄舟によって始められた。 新政府軍、幕軍の間に戦禍の恐れのあるとき、新政府軍から治安維持の為に協力を求められた人の中には、清水湊の山本長五郎があった。 江戸開城に伴って新政府から駿河入国を許された徳川慶喜公は水戸から軍艦蟠竜丸で清水湊に上陸した。 新政府に帰順しない幕府軍の一部は軍艦により蝦夷地へ向かったが、その中の咸隣丸は銚子沖で台風に遭い、 下田に避難した後、清水に入港しようとしたが、三保沖で官軍と戦って破れた。山本長五郎はこの折にも戦死者の埋葬、供養をしたことが知られている。 

清水湊は元来、天然の良港であったがその地形的な特徴が遺憾なく発揮されるのは明治以降である。 この地形的特質も、江戸時代の、沖に停泊した廻船に小舟で荷物を積み込む、という荷役方法では、他の湊に比べて取り立てて重要な点ではなく、河口の浚渫が楽であると言うほどのものであったと思われる。明治に入り近代的な船舶が導入されると共に、荷役方式も本船を直接岸壁に繋留して行なう、という港湾施設の近代化が進められると、清水湊の地形はそれまでとは比較にならないほどの重要な条件となった。清水港は同時に江尻宿に隣接し、陸の東海道と海の東海道の接点という性格も合わせ持っていた。


巴川での瓦の荷役(昭和初期)


清水港日之出埠頭(昭和初期)

明治末期には清水港は茶の輸出港として隆盛を迎え、明治44年の輸出額では全国第5位となった。 大正6年には新しい埋立地が出来ると、満州からの大豆を油として精製する工場、続いて造船会社、製紙会社等が作られて急速に工業化が進んだ。

関東大震災の復興に際しては県内河川の森林資源をバックに発達した製材化工業と結んで木材輸入港としても躍進した。 また昭和に入るとみかんと鮪という地場産品を軸に輸出用の缶詰工業が我が国の輸出の一端を担った。

昭和27年に国の特定重要港湾に指定されると共に清水港の復興は始まり、工業用原料の輸入はそれほど変わらないものの、 食品、缶詰主体であった輸出は、自動車など工業製品を加えてますます多様化し、現在にいたっている。

近代に入り、清水港が県内のほかの港とは異なる発展をとげた理由には、この地形的な条件、株仲間による安定した湊の運営に加えて、 東海道鉄道の停車場が江尻に設置されたことが挙げられる。これによって清水港は県中部における近代的な交通システムの要としての役割を担うことになった。 昭和の始めまでは図ー1.に見られるような伝統的荷役が残っていた清水港は、整備が進むにつれ、急速に図ー2.の様な近代荷役に姿を変えて行った。 県内最大の国際貿易港である現在の清水港は、三保地区に海洋レジャー基地、興津にコンテナヤードを持って、第二東名高速道路、 中部横断自動車道路の結節点としても重要な役割を果たそうとしている。


大日本帝國陸地測量部
明治22年測量、明治41年刊
二万分一地形圖「清水」「興津宿」「久能山」「駒越村」より



国土地理院
昭和63年改測、昭和63年刊
1:25,000地形図「清水」「興津」「静岡東部」「駒越」より



清水港の歴史的機能