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![]() 目次 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 5-1.江の浦 ![]() ![]() ![]() ![]() | |||||||||
![]() 江の浦港の遠望 江の浦港 かって江の浦を西風から守り、風待の湊としての優れた環境を作りだしていた岬は、 下の地図にも見る通り、伊豆石の採石のためほとんど削り取られてしまった。
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| 5-1. 江の浦湊5-1-1.所在沼津市の南方、国道414号線を南下し、獅子浜先端の採石場をめぐるように走ると江の浦港である。 沼津港が人工の港湾であるのに対して、江の浦港は天然の良港で古くから知られていた。 三島や中伊豆方面との関わりが強く、414号線は、海岸唯一の生活道路でもあるが、観光シーズンにはしばしば交通渋滞を生じている。 5-1-2.地形駿河湾最奥の入江で、西側の採石場の岬が西風を防ぎ、波静かで水深の深い風待港としての条件に恵まれていた。 北側の背後の山が海に迫り、平垣地が少ないので、海岸沿のわずかな平地に人家が密集している。 昭和初期までは江の浦海水浴場があったが、当時から砂浜はなく、家並みのすぐ裏は岩礁が続く海辺であった。 当時、港の東側にも小 さな岬があったが、現在は削り取られて平地として利用されている。 西側の岬も採石により大きく削り取られ、江の浦港の自然条件は大きく変わりつつある。 5-1-3沿革江の浦は早くから開拓された土地で、横穴墓が多数存在し、良港として中世末には伊勢船が入港しているし、 江戸時代には伊勢、紀伊方面の帆船が江戸へ往復の途中に寄港 している。 当時、大阪、名古屋からの物資の陸送がきわめて困難で、海上輸送によるしかなく、尾張方面の特産物である酒類、味噌、 しょう油や陶器類などは、安全保持の見地から江の浦港に寄港して江戸へ輸送された。 当時、寄港した千石船は名を知られたものだけでも20隻を数えたといわれている。 さらに幕末において、品川沖に御台場を築造するに当たり、当時、特産の伊豆石を使用したため、その積み出しはすべて江の浦港からであった。 急流の難所である富士川が整備されるのと同様、「浮島ヶ原」として広がっていた岳南の低湿地も次第に開発され、 この地域からの米は鈴川、潤井川河口の吉原から清水へ津出しされたであろうことが明治20年の地図から分かる。
明治中期には、三島と江の浦を結ぶ臨港鉄道の計画があったが、途中で挫折してしまった。
しかし、大型貨物船が石炭を満載して入港し、沼津や吉原の工業地帯へ燃料を輸送していた。
また、近年、江の浦は遠洋漁業にかくことのできない餌の供給地として異色で、静浦、内浦沿岸で獲れるイワシを蓄養し、
カツオやマグロの餌料として、南は鹿児島、北は岩手の諸県からこれを求めるため大型漁船が入港している。
江の浦港は古くから知られていながらも、地理的に市街地中心部から遠ざかっていたことや、
山が迫っていて後背地が少ないことにより、躍進的な発展を遂げなかった。最近は漁船にかわって、
プレジャーボートが目立ち、海洋レジャー基地として変貌しつつ ある。
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