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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田


河口左岸上から松崎港と海岸線を望む。

4-6. 松崎湊

1.所在

晴れた日には遠州が駿河湾ごしに見える西海岸で最も古い町である。 町域は南に南伊 豆町と蛇石山系で境し、東に下田市、河津町と婆沙羅山系で接し、 北は富貴野山、公方 山の稜線で西伊豆町と境する。 港は那賀川と岩科川の合流点から海岸にかけての河口が港として活用されている河口港である。 松崎港からは沼津や下田、そして対岸の清水へ の定期航路が開設されている。

2.地形

町の東側の小高い牛原山をめぐって南北に那賀川と岩科川が西流し、港の近くで合流、 駿河湾に注ぐ。合流点付近より海岸にかけて、松崎の市街地が形成されている。 那賀川下流は桜田あたりより急に開け、市街地まで広い水田地帯となる。 昔は畳表の原料のい草の栽培が盛んであったという。 岩科流域は海岸沿いの蛇石山系の支脈が川をさえぎり、 盆地状の細長い沖積平野が開ける。 この地区の山林は良く手入れされ、かつては木炭の生産では質、量ともに伊豆一と言われた。

河口の右岸は港湾整備が行われ、漁船の船溜と、埋め立て地には魚市場等の漁業施設が建設されている。 その北側は、海水浴場として賑わう砂浜が弁天島まで続いている。 河口左岸は蛇石山系の支脈が川いっぱいに迫っていて、防波堤が北に突き出している。

3.沿革

足利基氏が伊豆の海賊衆11人に宛てた書状の中に、松崎沢谷城主、渡辺伊予守の名がある。 沢谷城は牛原山にあったと推定され、那賀川の下流が水軍の船溜として利用されていたと考えられる。 渡辺伊予守の子孫、渡辺織部は徳川水軍の船手となって、伊豆の島々への巡見や朝鮮出陣などに参加、 慶長5年(1600年)には、関ヶ原合戦で破れた西軍の将、宇喜多秀家を八丈島へ護送する任務を果たしている。

江戸時代になると、駿河湾の湾内航路の湊として廻船の出入りが多くなる。松崎からは、 カツオやカツオ節等の水産品や木炭、竹材、石材、い草、それに年貢米が江戸や上方に積み出された。 天保12年(1841年)の韮山代官宛の差し出し文書によると、松崎から江戸、 上方へ往復する300石以上の廻船には永順丸(700石積)、金比羅丸(800石積)等7隻あったことが報告されている。 また当時は、那賀川や岩科川の 上流まで川船が上り、物資を運搬していた。

松崎港は下田に次ぐ物資の集散地として栄え、その繁栄は明治になっても続き、諸国の船が頻繁に出入りしていた。 幕末安政6年(1859年)に土屋三餘が三餘塾を開いた。入門を乞う塾生が地元伊豆はもとより、 仙台、江戸、京都、熊本からもあったという。これらの塾生の中から明治の日本、伊豆で大きな足跡を残す逸材が輩出した。

三餘塾で育った人材の中で、松崎の商家に生まれた依田善六は、地域の山林振興や農事振興にも努力し、 明治20年に松崎、沼津間に汽船松崎丸を就航させるなど、西伊豆の海上交通の発展に尽くした。 同じく、三餘塾に学んだ依田佐二平は、早くから養蚕に着目し、伊豆全域に広めると共に、松崎製糸工場を設立した。 西伊豆一帯で生産される まゆは「松崎まゆ」といわれその価格は「松崎相場」として、新まゆ相場の基準となっ た。

このまゆも松崎港から東京方面に船で出荷された。

このように松崎の交通の中心は昭和40年代に自家用車が普及するまで、港であり船であった。 現在でも定期航路の発着地、近海漁業の基地として、港は重要な役割をはたしている。 最近は夏の海水浴客や石材等の移出の増加に対し、港湾、海岸の整備が行わ れている。

4.まちなみの様子

明治末期の写真によると、茅葺き屋根も多く、瓦葺きでナマコ壁の民家と混在している。

海岸線には松林が続き、河口も譲岸がなく広々している。現在は譲岸が整備されているが、 河口港としての昔の雰囲気は残っている。海岸線は埋め立てられて養浜されているため、松林がかなり後退している。 一時は観光資源にも乏しく、伊豆の観光ブームから取り残されていたが、 ナマコ壁の民家や入江長八の作品等の歴史財を活用したまちづくりに成功、現在では、 松崎の歴史財やまちなみの雰囲気を求めて訪れる観光客が急増している。


大日本帝國陸地測量部
明治20年測量、明治22年刊
二万分一地形圖「松崎村」より

国土地理院
昭和58年改測、昭和60年刊
1:25,000地形図「伊豆松崎」「仁科」より