title

目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
4-1.網代 4-2.川奈 4-3.稲取 4-4.下田 4-5.南伊豆 4-6.松崎 4-7.土肥 4-8.戸田


土肥港


土肥神社の大クスノキ


丸山城址
舟溜の入江は埋立られて
町民グランドとして利用されている。



金山資料館の入口

4-7. 土肥湊

1.所在

駿河湾に面した西海岸で最も古い温泉場である。 町域は南は賀茂村と、東は天城湯ヶ島町、北は戸田村と接する。 東名高速道路沼津ICからは、修善寺経由で国道136号 線から土肥に入るのが一般的なルート。 海岸線を北の大瀬崎、戸田を経由して入る雄大なパノラマが展開されるコースもあるが、 大型車等の通行には道路が十分整備されていない。 海上交通は、沼津〜松崎航路の定期船と、田子の浦港からのフェリーの便がある。

交通の不便な西伊豆の中では、船原トンネルの開通やフェリーの就航により西伊豆一の交通の便を誇る。

2.地形

三方を山に囲まれ、わずかに西側が駿河湾沿に開けた町である。 船原峠付近に源を発する山川は急流となって土肥新田に下り、 水口付近を頂点に三角形の扇状地を駿河湾に向って作り、この扇状地の北側山麓沿と、 海岸に、人家と温泉街が密集して市街地を形成している。土肥海岸は、駿河湾越しに、 駿河、遠州を望む白砂青松の美しい海岸で夏は海水浴場として賑わうが、 駿河湾からの波浪を防ぐ離岸堤が海岸線に平行して設置されている。 山川河口の北側に現在の土肥港が整備され、近海漁業の基地として、 定期船の寄港地として、また温泉および夏期海水浴客の観光港としてその性格は多彩である。 背後に急峻な山地が迫り、陸路が限られているので、港の存在は現在でも極めて重要である。 南の八木沢海岸は、大小の入江が点在するリアス式海岸で、太古から東西洋上交通の中継地として、 船が出入りし「日和待港」として利用された。中世には水軍基地として船溜があり、 現在、その入江は埋め立てられて町営グランドとして利用されている。

3.沿革

土肥も戸田と同様古来より、海上交通により駿河や遠州と交流があったと思われる。 土肥には丸木船の材料として適しているクスノキが多く、 土肥神社や安楽寺に巨木が自生していて、古くから造船の伝統があったことがうかがえる。 土肥の名前が、平安中期の「延喜式」に土肥神社をはじめ5座の式内社があったことが揚げられているが、 ほとんどが現存していて、それぞれの地域の総鎮守的な神社として、住民から尊崇されている。

治承3年(1179年)、文覚上人が、伊豆に配流される途中、遠州灘で海が荒れて、八木沢海岸に漂着した。

鎌倉時代末期から 西伊豆でも各入江を根拠地とする土豪が割拠する時代を迎えるが土肥神社には、 関東管領足利基氏(尊氏の次男)が延元年間(1336〜39年)伊豆の海賊衆11人宛に書き送った書状がある。 この中に土肥高谷城主、富永備前守の名がある。土肥高谷城跡は土肥小学校裏山の台地にあったと推定される。

土肥八木沢の丸山城も、古くから土豪の拠点となっていた。 当初の丸山城は海岸に孤立した海抜50mの丸山だけで完結した小さな城で、 土肥の富永氏が勢力を伸ばすにおよび高谷城の支城として使われていた。 その後、天正の初期になって甲斐の武田氏が駿河に進出し、清水湊を拠点に武田水軍が組織されると、 対抗上、伊豆を領していた北条氏も大型水軍基地を建設する必要に迫られ、 この丸山城を本格的な水軍の城として整備拡大したのであった。 拡充された丸山城は約20ヘクタールにおよぶ広大なもので駿河湾対岸の清水・富士方面を見通せる地の利を占め、 城下に絶好の船溜りの入江を持って いた。 現在この入江部分は埋め立てられている。延徳3年(1491年)、 北条早雲が韮山の堀越公方足利茶々丸を倒して伊豆の領主となると、 土肥の富永氏も北条氏に臣 従し、姻戚関係を結び、北条家中での重鎮となった。

「伊豆志」によると土肥金山が開発されたのは天正5年で、当時は北条氏の領地で富永氏の領村であったため、 ここで掘り出された金は、北条氏の軍資金に使われたと思われる。 土肥屋形に天正時代の坑道の跡が残っていて「天正金鉱」と呼ばれている。 徳川幕府は、全国の主要な金銀鉱山を官営とし、大久保石見守長安を金山奉行に任じた。 記録によると、当時、土肥には金掘り、鍛冶らの職人、芸人、遊女などが全国から集まり、 一寒村だった土肥は一千戸を越える家と人で繁栄、ゴールドラッシュの賑わいを見せた。

元禄3年(1690年)以後、採掘量の減少で次第に衰退したが、 明治39年神戸の実業家、長谷川圭五郎による採掘経営が当たって、 土肥金山は近代企業として再出発することになり、昭和40年の閉山まで大量の金銀を産出した。

土肥には「まぶ湯」と呼ばれる名湯がある。土肥温泉発祥の湯で西伊豆では最も古い。 まぶの湯の発見は金山開発が盛んになった慶長年間で、 安楽寺の境内の岩窟内に温泉が湧き出していたという。 「まぶ湯由来記」が伝承されている。明治に入ると公衆浴場として利用された。 明治37年に協同事業でボーリングを行い、熱泉を掘り当て、これが土肥温泉の開発の始まりである。




土肥海岸:白砂清松とホテル群


旧街道沿いの昔の面影を残すまちなみ


4.まちなみの様子

土肥の温泉旅館は大正末期には8軒、昭和50年には54軒と増えていった。 昭和40年の鉱山閉山までは、金鉱と温泉の町として、海岸には金鉱石の積み出しを行う貯鉱所や桟橋があった。 桟橋までトロッコで運搬され、鉱石運搬船(2000tクラス)で、瀬戸内海の直島まで送られて精錬された。 昭和40年代までは土肥のまちなみ景観はあまり大きな変化はみられなかったが、マイカー時代を迎え、 道路が整備されると西伊豆の温泉観光地としてクローズアップされ、 大型の旅館やホテルが次々と建設されるよう になり、町の景観も変わってきた。 わずかに扇状地の北側山麓沿の旧道には、昔のまちなみの雰囲気が残っている。

山沿には清雲寺(日蓮上人の古刹で、高谷城主富永山城守政家が創建)や、 まぶ湯と大クスノキの安楽寺、大明神と大クスノキの土肥神社、 金山奉行・市川助衛門の供養塔がある光源寺と牧水の宿・土肥館などの歴史財が多く分布し、 歴史の街道として保全したい。一方、海岸沿の松原公園は近代的な公園整備が進み、 林立するホテル群と相まって、海浜リゾート地の景観が形成されている。 土肥でも新しく港を核としたまちづくり の施策としてM.T.P.調査が数年前に行われた。

土肥金山の跡は、坑道が観光用に開放され、 金山資料館「黄金館」にはゆかりの品々が展示され、江戸時代の盛況ぶりが偲べる。


大日本帝國陸地測量部
明治20年測量、明治22年刊
二万分一地形圖「土肥村」より

国土地理院
昭和58年改測、昭和60年刊
1:25,000地形図「土肥」「達磨山」より