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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切


南京商船難破瓦版


福田湊口の松並木、比較的良く残されている。


天竜社の現況、福田の繁栄を作りだした記念的建物、資料館等としての利用が考えられるが、対策は急を要する。


町内に点在する秋葉燈篭は福田湊が秋葉山の海の玄関口であったことを物語る。


豊浜で現在も営業されている、湊の由緒を伝える旅館。




福田より今之浦川(上)と太田川(下)の上流を臨む。中遠の広い稲作地帯の年貢を福田へ集荷した水路は「遠州の水郷」ともいうべき景観を作りだしている。上流域の急速な都市化と共に水質、親水化等の課題が浮上している。

6-4. 福田湊

6-4-1.所在

福田湊は太田川の河口に位置し、現在の行政区画は磐田郡福田町に属する。福田港は昭和26年第2種漁港として設置され、29年管理を県に移管、48年に第4種指定を受けて漁港施設の整備がされているほか、避難港の機能を持つ外防波堤の建設が進んでいる。福田周辺は幕末より綿織物が発展し、現在も別珍コール天の全国一の産地となっているほか、メロンなどの施設園芸も盛んである。近年、化学工業、研究機関の進出と共に、漁港整備につれてシラスを中心とした漁獲高も上昇している。農水産業、工業、第3次産業がバランスをもって発展している地域である。

6-4-2.地形

福田湊は太田川の河口に位置するとともに、坊僧川、今之浦川、前川を合流する位置に発達した。これらの河川は県西部海岸地域の広範な水田稲作地帯を流域としており、古くから農業用排水路として整備されたが、同時に産米の移出路としても利用されたものである。

6-4-3沿革

宝永4年(1707年)の地震で、弁財天川口の湊が使えなくなって以来、江戸時代を通じて福田湊は、遠州灘における江戸廻米積み出しのための重要な港であった。安政2年(1855年)の「皇国総海岸図」では書き込みによって港の様子が解かるだけでなく、当時横須賀城下には、入江と書き込みされた、大規模な水運のための施設があったこと、同じように福田湊に運ぶ物資を積み込む場所として、今浦、中泉にも施設が整っていたことがうかがえる。このことからは横須賀藩、中泉代官所管内の江戸廻米、また「山名郡村々」の年貢米も、おそらく福田湊から積み出されたであろうこと、さらには掛川藩についても、福田湊を利用した可能性があることが解かる。港の機能としては、沖積みを中心とし、悪風時には空舟多数が湊内に繋がれた。現在、福田だけでなく、豊浜地内にも当時の河岸の面影を残す建物等が残っている。

同じ「皇国総海岸図」には、御前崎から浜岡の海岸にかけては、「荒磯無舟繋」という書き込みがある。弁財天川口の湊が使えなくなって以来、福田湊は避難港としても重要な役割を果たしてきた。左の図は寛政12年(1799年)、遠州灘で遭難した南京商船のありさまを伝える瓦版である。

福田湊の人達は東海の難所、遠州灘にあって、海難にあった異国の船乗りを救ったことも度々であったろうと思われる。嘉永5年には福田村庄屋が横須賀藩より難破船取締役を命ぜられており、左図の様な外国からの難破船を福田湊に受け入れている。。

6-4-4.まちなみの様子

福田町は福田を中心とし、その周りの河川沿いにいくつかの旧集落がある。福田はその中心をなすものであり、国道150号線と庁舎の間に、古い面影を留める街路がいくつか残されている。いずれも江戸時代より地域の核として繁栄したことを思わせるものであるが、福田における湊の景観としては、河口付近に残る松並木、国道150号線の南北に輻輳する太田川西岸の堤防などが上げられるが、まちなみ景観の主調は別珍コール天の産地として発展した時代のものである。天竜社の建物を始め、織物工場の建物がいくつか残されているが、いずれも福田独自のまちなみ景観を形成する資産として保存、再利用を考える必要があろう。また、まちの中には秋葉山の燈篭がいくつも丁寧に手入れをされて保存されている。これらの燈篭は森町のお茶が福田湊から積み出されたこと、森町の古着市が全国的に有名だったことも合わせ、福田湊が信州街道の海の玄関口だったことを物語っている。

これに対し、豊浜は太田川対岸の偃堤上に発展した地域であり、「河岸」の屋号を持つ商店、旅館などが残されている。「カッフェー」などの新風俗も先ずここにもたらされたとのことであり、地域における外部文化の受容の場であったことがうかがわれる。現在の豊浜の様子からは想像しにくいが、明治23年の地図によれば、前川は現在の流れを北に延びて豊浜から太田川に合流しており、ここが横須賀藩の城米積み出しの為に整備されたであろう事が解かる。前ページの船かどうかは定かでないが、難破した唐人が、お礼に置いていった舟の材木で作った橋が、豊浜に「唐人橋」として面影を残している。

いずれの集落にも、福田湊では掛塚湊ほど廻船問屋が発達しなかった。これは福田湊が中遠の広い稲作地帯からの年貢米を積み出すのが主な機能であったことによると思われる。福田、豊浜には港湾管理機能のみがあり、荷役作業は「川筋村々」と表される年貢米の産出地から、川船で福田湊に下ったものであろう。そのため福田湊から城米を津出しするための「河岸」は、横須賀城下、中泉、掛川等の広い範囲に点在していたものであろう。当時このような川船の運行を助ける川役を勤めたであろう川筋の集落の景観は塩新田、於保村などにも色濃く残されている。

福田湊は中遠の平野部における河川舟運の要として機能していた。物資輸送用の水路はそのまま、農業用給排水施設としての水路となる。集落の骨格形成もまた稲作地帯にあって、このような水路を中心に作り上げられていたものである。こうした河川舟運の姿は江戸時代の関東平野においてみられた物資輸送の姿に酷似している。道路網の整備と共にそうした農村集落空間を構成していた構造が目に見えにくいものになっているのが現状であるが、農業用排水設備としての水路網はよく整備された状態にあり、それが歴史的な農村集落の景観を美しく保つために重要な役割を果たしていることに留意すべきである。豊浜に隣接する浅羽町湊地区はかっての横須賀街道を幹線としており、このような歴史的川筋集落景観をよく残す集落として重要である。

6-4-5.これからの課題

以上の様に福田湊は農村地帯にある川口湊の典型的なものと捉えられる。これに付随する湊の景観は機能集中型のものでなく、横須賀、掛川、袋井、中泉といった広い地域に点在する河岸の景観がそれに代わるものであろう。中遠の平野部を網の目のように流れる多くの河川は、農業を中心とした利用の中で治水事業の対象としてよく整備されてきた。しかしこれらの河川はそれ自体が地域の歴史を作り上げた地域独自の資産であることに注目し、今後、河川親水化などの整備、農村集落の景観整備等が計られるときには、福田湊に通ずる物資輸送路であったという歴史的上の背景、意味合いを保全し、河川を歴史的資産としても活用することを考えることが必要であろう。

特に福田町における太田川、坊僧川河口付近は将来の余暇活動のためにも様々な利用が考えられる地形であり、そうした場合にも地域の歴史を踏まえた景観整備が望ましい。


大日本帝國陸地測量部
明治20年測量、明治23年刊
二万分一地形圖「見附」「大須賀村」「袖浦村」「幸浦村」より



国土地理院
昭和45年改測、平成2年修正、平成3年刊
1:25,000地形図「磐田」「掛塚」「袋井」より