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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切


御前崎の海底地形図、御岬と御前岩の周辺に無数の岸礁が見られる。

6-3. 御前崎

6-3-1.所在

御前崎は駿河湾口西岸の最南端に位置し、榛原郡御前崎町に属する。 神子元島を除く伊豆半島よりも南に位置し、静岡県本土の南端でもある。 昭和11年に港湾法による避難港の指定を受け、 県の重要港湾として現在も整備が続けられている。 また御前崎漁港は沿岸漁業基地と同時にレジャー・フィッシング・スポットとしても賑わいを見せている。

6-3-2.地形

かって「九十九匹の神馬が化して岩となった」と伝えられるように、 御前崎付近は砂岩と泥岩の互層が鋸歯状に侵食された地形が、左図の様に陸上だけでなく、 海底にも無数の暗礁として拡がっている。古くから海の難所として有名であるが、 その反面、冬期の西風の強いときには絶好の風待ちの場として、現在も沿岸航路の船舶に利用されている。




荒天下の弁才船 船の科学館


静岡縣遠江國榛原郡 御前崎村 御前崎燈臺之圖
秋谷 静園 筆 / 東京精行社刊
6-3-3沿革

近代まで、御前崎には港湾施設はなく、浜辺に漁船を揚げるスタイルの漁村であった。 元禄年間までに丘陵地が開墾された。白羽の市兵衛が沼津廻船を経営した、 あるいは松林家が千石舟の舟持ちであった、とされているが、 湊としては相良湊を母港としたものか、現在のところはっきりとは分からない。

廻船と御前崎との関係はむしろ灯台、あるいは難船の場としての方が濃厚である。 寛永12(1635)年には行灯を2間四方の建物に収めた灯明堂が設置された。 地頭方村、地頭方村御前崎から毎晩2名灯明番として出した。 御前岩が岸から4kmであるのにたいして廻船の通り道は岸から1.5kmであり、 この廻船の通り道から確認できる明かりであった。 御前崎が海の難所として有名なのも、前述のように岬の裏に入りさえすれば、 冬期の西風を除ける絶好の場所である釘ヶ浦との対比によるものであろう。 しかし現実にも遠州灘における海難は数多く、 江戸時代からの海難の記録が70件ほど発見されている。 船籍は掛塚、大阪から九州にまで渉っており、 ここが海の大動脈であったことを物語っている。難船記録の一例を挙げておく。

塩飽(しあく=香川県)の廻船問屋牛嶋平右衛門の持船は、嘉永2(1848)年秋10月10日に函館を出帆した。 16人乗りであるところからすれば1200ー1600石船程度だと思われる。 積荷の干鮑(あわび)、干鱶鰭(ふかひれ)、干昆布は長崎俵物会所の御用荷で、中国との交易に用いる我が国の特産物であった。 これだけでは利幅が薄いため、船頭差配の昆布、鱒〆糟、干鱈、布海苔等も積み込まれていた。 西風を避けながらじわじわと波路を登った船は、翌嘉永3年正月7日遠州灘沖で難風に遭い、 帆柱を切って伊豆の岸に辿り着き、2月1日、下田番所で難船の取調べを受けた。 ここで6ー700石積みの帆柱を求め、3月18日には下田を出帆、子浦で日和待ちをした後、 4月10日朝、北東の風にて子浦を出帆した、しかし夕刻遠州横須賀沖に到って時化となり、 11日朝御前崎沖岩根に乗当てた。船の残骸と回収した積み荷、船用具を入札したところ21両余りであった。

こうした海の難所を安全なものとするため、 明治5年より英国人技師リチャード・ブラントンの指導で近代的な灯台の工事が初められた。 建設には地頭方村で焼かれた煉瓦と共に、船で運ばれた伊豆石も使われたという。 明治7年5月に点灯された灯台は

  • 名称 御前埼灯台
  • 位置 駿河湾の西、東経138度14分、北緯34度39分
  • 構造 円形煉瓦石造白色
  • 機械 第一等旋転
  • 灯光 白色
  • 灯口 一個四重心
  • 明弧 南45度7分より西北東を経て南71度54分東迄242度19分間
  • 燭光数 67,500燭光
  • 灯高 基礎57尺、水上173尺
であった。

6-3-4.まちなみの様子

御前崎は地形がもたらす特徴として、冬期の季節風が特に激しい地域である。このためかって丘陵地では、風よけのため地面を掘り下げて屋敷としていた。現在でもこうした屋敷が僅かながら残されている。また現在、上記の見尾灯明堂の復元が計画されているところである。




大日本帝國陸地測量部
明治22年測量、明治24年刊
二万分一地形圖「新屋」「御前崎」より



国土地理院
昭和45年改測、昭和54年修正、昭和56年刊
1:25,000地形図「御前崎」より