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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切


当時の日和山から勝間田川の河口を臨む。U字型に蛇行する川に囲まれたところが川崎湊。


鹿島神社の石積みには「当湊廻船」と記されている。


静波地内の旧田沼街道。往還に面した町並の裏が河岸になっていたものと思われる。


勝間田川沿いの現況。

6-1. 川崎湊

6-1-1.所在

川崎湊は榛原郡榛原町にあり、牧の原北東から東南に向かって流れる勝間田川の河口を指す。東名吉田インター、相良・牧の原インター等を含む都市基幹施設の整備に伴い急速に産業立地が進んでいる地域であるが、隣接する坂口谷川上流には現在、静岡空港が計画されており、さらに近代的に姿を変えようとしている地域である。

6-1-2.地形

勝間田川、坂口谷川、湯日川はいずれも牧の原を刻んで駿河湾に注ぐ河川であり、大井川とともに河口西岸の沖積平野を形成しており、勝間田川はその南端にあたる。海岸沿いの平野部には条里制に拠る碁盤目状の畔が形成されていた。勝間田川は静波でU字型に蛇行して海に注いでおり、これが川崎港の地形的特色を作りだしていた。。

6-1-3沿革

中世、初倉庄では年貢米を和歌山から紀ノ川を通って高野山に運んだとされるが、既にこの時代京都等の領家に至る水運が有ったものと思われる。勝田庄を治める勝田氏が応仁の乱に破れ御殿場に退いた折にも、舟で逃げたものとも考えられ、戦国時代にも重要な軍事拠点であったことが、高天神記にも「川崎湊あり」として明らかである。 豊臣氏が朝鮮出兵に際して「大井川口で大船を作らせた」とあるが、詳細は不明である。ただし、大井川河口付近の治水が完備していたとは考えにくく、中小河川の方が造船に適していたことが考えられる。

江戸時代を通じて川崎湊は掛川藩の外港という点で重要であった。天和3(1617)年の鹿島神社改築の棟札でも掛川藩主が願主として記されており、掛川藩が川崎湊の経営を重視していたことがうかがわれる。18世紀末、川崎湊の船問屋が廻船新造に際して掛川藩から建造費を借用している資料がある。このことから、掛川藩では城米輸送が廻船問屋の手に委ねられていたこと、掛川藩が川崎港にそうした廻船問屋を育成することを重視していたことがうかがわれる。

廻船の発達は城米輸送のみならず、産業の発達と共に各地の産物が川崎湊を通って交易されることを促進した。特に塩の交易は重要要素であり、相良の塩は青崩峠からあまり奥に入っていないのに対して、川崎の塩は青崩峠(信遠の境)を越したと言われる。「椀貸せ地蔵」の伝承から、木地屋との交易があったことも考えられる。廻船湊として舟大工の伝統も有った。

文政7(1827)年には釣学院から港橋まで、文政8年には港橋から海岸までが改修整備され、湊の最盛期を迎えることとなった。川崎湊の機能を補助するためには隣接する坂口谷川の河口も利用されたことと思われる。明治初年の川崎湊には船主45人、廻船60雙で最大460石、船頭70人、乗組員110人が属していたという。これらの船で上方から江戸までの海運に賑わった川崎港も明治22年の東海道鉄道開通と共に次第に衰退することとなる。

6-1-4まちなみの様子

川崎湊のあった静波付近は国道150線が既存市街地を避けて作られているため、旧道沿いの景観は比較適良く保存されている。河岸の建物としては文政7年の改修で河岸が形成されたであろう8丁目付近の川沿いに、製材所などが当時の面影を伝えるのみである。しかし川の様子からは岸壁に本船が接岸する、という近代港湾の在り方とはことなり、廻船に積み込むため、桟橋で荷を積んだ小舟が川筋を行き交う、という当時の湊の有り様が思い浮かぶ。

近年の勝間田川は上流域及び台地の農業開発、治水整備事業等の進行によって次第にその姿を変えている。流域の広い範囲で排水設備が近代化することにより、降った雨はかってに比べ、短時間のうちに海まで排出されることとなった。このため降雨後の一時的な増水に比べ、雨降りと雨降りの間の期間にあっては水位が以前に較べて低くなった。比較的低い増水が長期間続いた以前の姿とは変わっており、このことも川崎湊の往時の姿を想い起こさせにくくしている原因の一つではあろう。

江戸時代を通して掛川藩などの城米輸送基地、上方から江戸に至る国内流通基地であった川崎湊はその役割を近代輸送機関に譲って久しい。しかし田沼侯の退陣が今少し遅く我が国の鎖国政策に転換がもたらされておれば、川崎湊は一層の繁栄が有ったと考えられる。静岡空港が現実のものとなりつつある今、榛原町の他地域、外国との交流の礎を築いたものとして、川崎湊のたたずまいが長く残る工夫が求められている。


大日本帝國陸地測量部
明治21年測量、明治23年刊
二万分一地形圖「川崎町」「大江」より

国土地理院
昭和45年改測、昭和54年修正、昭和56年刊
1:25,000地形図「相良」より