「湾生」というのは台湾生まれ、台湾育ちを意味する台湾弁ということであります。
生まれこそ米国ではあるものの、台湾で人間形成をしたリービ英雄は「湾生」と言ってもよいでしょう。その後東京へ出て1970年には20歳の小僧で、新宿辺りをうろついていた、という同世代の気安さが心地良いのです。
このリービ英雄の書いた「天安門」という小説が結構面白かった。本を開くといきなり「ブルベン」と「ヘルペル」であります。
純文学ということなのでいささか失礼かもしれないが、話が北京空港に着陸するまで、
私はゲラゲラと大笑いをしながら読んでしまった。寝床の中ならまだしも、話が北京行きの飛行機の左側の席の話なので、新幹線の座席が話の展開と重なってシートに身体がめりこんでしまったのです。
主人公は午後の北京行きで左側の座席を割り振られてしまい、黄色い海の上で窓から照りつける西日に焼かれるのです。
文面に現われないので、後の世代の人には解らないはずなのですが、
主人公の頭のなかに響いているのは「東方紅太陽昇中国出了給毛沢東他是人民大救星」です。
で、主人公の頭の中ではこれが堺利彦だか幸徳秋水だかの
「しきしまのやまと心を人問はば西日に匂ふ雪隠の窓」という辞世とくっついてしまう。
万葉集研究が本職なので、本居宣長の本歌もずるずると浮かんで来るという具合です。
この人の言語的豊かさはやはり台湾育ち、というところに根っこがあるよう思えます。
6歳から13歳まで(だったかな)を台中で育った英雄の周りは、
例によって英語・北京語・客家語・閔南語・日本語などが絡まった世界だったようです。講演でも「言語と国家」に言及しています。引用・転載禁なので
http://ilc.doshisha.ac.jp/ilc/cultweek/levi.htm
をどうぞ。
「非情城市」という映画があって、画面には日本語が北京語になっているようなところがありましたが、
上海ヤクザの言ったことが一度北京語に翻訳されて、それから再度台湾語に翻訳されるのです。
たぶんリービ英雄はそのうちに台湾を舞台にした長編小説を書くのではないかと期待しておるのです。
倭色一掃の韓国と違い、台湾には英雄の子供の頃の建物も結構残っています。
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