2001.9.24
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「もち鰹あります」という貼紙が4月になると市内の魚屋の店先に貼り出されていることがあります。 こうした魚屋は消費地市場ではなく、舞阪、福田、御前崎といった産地市場からの直送ル−トを持っていることが解ります。 魚屋さんの説ではもち鰹とは、「同じ群れの鰹の中に何割か含まれる個体で、 水揚後4ー5時間以内の死後硬直が始まる前に生食すると、 生もちの様な独特の弾力性を持つもの」ということであるようです。 九州から関東に掛けて、いくつかの港町に「もち鰹」という言い方がある様ですが、 浜松人のもち鰹趣味は決して他所にひけを取りません。 特に浜松祭にもち鰹を食いたい、というのが遠州の粋人にとって、旨いものの筆頭株の様であり、 4月末から祭の終わる5月5日まで、浜松周辺では鰹の値段が異様な高値となります。 困ったことに漁獲後4ー5時間以内という条件があるので、 新居、舞阪、福田、御前崎ぐらいしか水揚げに適した港はありません。 大平洋岸中部の沿岸鰹漁船の多くがこの時期、これらの港に集まるのではないでしょうか。 6日の菖蒲10日の菊ではありませんが、5月6日になると鰹の値段は憑き物が落ちた様に半値ぐらいに下がります。 したがって質に入れるに適した女房を持たない浜松人は、祭が終わってから鰹を食べることになります。 鰹は鮪同様の高速回遊魚であり、最高時速60km、平均回遊速度でも30kmで泳ぎ続けていなければ窒息死してしまうのだそうです。 「高級魚」と呼ばれるものが、大方は水槽の中で泳ぎながら築地に運ばれる現在、 そうした近代的食品流通に適さないもち鰹は、なかなか面白い食べ物だと思います。 いずれ輸送技術が進歩すると鰹を高速で泳ぐまま東京に運ぶ仕掛けなどが開発されて、 東京でも女房を質に入れればもち鰹が食える、 ということになるのでしょうが、現在の所もち鰹は産地住民の特権であります。 WTOの保護/規制対象にならない食べ物、という点でも面白いと思います。 相豆二州の浦々に生簀を囲って「駿河鯛」の徳川幕府への進上が始まったのが寛永5年とのことです。 鯛ならば長時間・長距離輸送にも耐え、「鯛の活ジメ」をしておけば、 すぐ食べるのでなく数日置いた方が味が出ます。これが当時の食品流通向きだった というのも、鯛が徳川時代に正餐のメインデイッシュに使われるようになった理由のひとつでしょう。 江戸の蘊蓄本である矢田挿雲の「江戸から東京へ」には、 伊豆の長八が近所の小僧に「江戸の鯛」と「生け簀の鯛」と「伊豆の鯛」の見分けが付かない、 といってからかわれた話が載っています。江戸の鯛は人様の食い残した御馳走ばかり食べているので、 身が甘くて美味しいのだそうです。これなど都市環境と水質汚染の話としても面白いと思います。 八丁櫓の押送船がトラックに変わったものの、鯛が目出度いのは当時から変わりません。 その家康も始めて海の魚を食べたのは浜松城在勤時代で、三河に居たころは鯉と鮒が進上魚だったそうです。 空想をこらすと、「鯛なんざ珍重するのは三河で鯉やら鮒やら、泥臭い魚しか食ったことが無かった連中のするこって、 太田道潅様以来、武州浜育ちのおらは目に青葉、山時鳥と来りゃあ、もち鰹だぞ。」 というのが、駿河・遠江・三河から「江戸弁」を喋る人々が押し寄せてくる前から、 今の東京に住んでいた原住民の好みだったのかも知れません。 当時、観音崎辺りで鰹が揚がっていて、六丁櫓・八丁櫓の早船が時速10kmないし15kmで漕げればこれは可能です。 家康入府の頃の原住民は今で言う三浦弁みたいなものを喋っていたでしょうが、 その鎌倉ではもち鰹は食べられていたのかどうか、これも興味があります。 さらに昔の、京都の住民なんてのは鱧の骨を刻んで食って有り難がる、という無邪気な人々でありますから、 もち鰹なんてのは気持ち悪がって食べなかったでありましょう。鴨長明さんは13世紀後半の人ですが、 貴族の食べる魚は断然、鯉であって、「鎌倉辺の連中は生の鰹など気持ちの悪いものを食う」と差別意識を丸出しにしています。 この魚が堅い姿のままで泳いでいるものと信じ、堅魚と名付けたのもこの人々です。 「東海道交通史の研究」 には天武9(680)年に「伊豆」が「国」になったのは、 税として堅魚を得るのが目的の一つだった。 あるいは伊豆分国に際しては土佐などの先進地から技術導入をして、 沼津に官営の大規模水産加工施設が作られた。など面白い話が載っています。 この論文では、税として義務付けられた「堅魚」が鰹節であるのに対し、 「荒堅魚」「麁堅魚」を鰹節の加工の荒いもの、としていますが、 「荒巻」が鮭の塩蔵品を示すのと同様、「荒堅魚」が鰹の塩蔵品とは考えられないだろうか、 というのが私が興味を持っているところです。西伊豆町田子港で「正月魚=塩鰹」と呼ぶものがこれでは無いかと、、、 鰹節と並んで当時の魚の食べ方には醢があるはずなのですが、この論文でははっきりしません。 紹介されている木簡には「堅魚煎汁」という記述がある様ですが、どうも「煎」というのピンとこないのです。 「本朝食鑑-鱗介之部三」 もち鰹で醢、今の呼び方でいう塩辛を作りました。舞阪港の魚屋のじいさまから指南されたのは 、 「モッチイだで、キモも全部入れよ。」 といった点でした。「もっちい」だとレバーも身と同じように、指で摘んでもそのまま崩れずにプリンと逃げてしまいます。 言われた通りレバーを全部入れた塩辛は、 市販のぺしゃっとした「酒盗」とは似ても似つかない 、 フォアグラの類いに似た、なんとも言い様のない濃厚な味わいを持ったものになりました。 「今昔物語」からヴェトナム戦争まで、人の「生き肝」ほど旨いものはこの世に無い。と言う話には事欠きませんが、 人の肝はともかく、フォアグラのような加熱加工したものより、生のレバーの方が美味しいことは確かでしょう。 それを醗酵によってアミノ酸を熟成させるというのは、グルメの終着駅、という感じがします。 作る手間にくらべると、食べてしまうのはあっという間でしたが、舞阪港に鰹を揚げるのは和歌山ナンバーの船団で、 7月の盆に帰った彼等が現れるのは来年の4月です。 |