2008.5.7


5日に東京より畏友Mさん来浜、雨の凧場から初めて、夜の練り、遠州灘、浜吊湖と二日間遊び回った。

働き過ぎで、健康と金に困らない身分を、取っ替えてしまったMさんは、初日うなぎ屋へ上がって「食えるもの全部出せ。」みたいなことをしたのだが、シメはやはり鰹である。幸い祭りが終わったので、6日の鰹なら私にも買うことが出来るのでは、と井伊谷から舞阪へ走った。

井伊谷では渭伊神社を見てきた。龍潭寺が観光地になっているが、小堀正一の庭と言っても時代は駒込六義園の頃の作庭だ。隣の井伊谷宮は、安政の大獄の仕返しを恐れた井伊家が、明治5年に建てたもので、そう古いものではない。祀られている宗良親王は南北朝の頃の人で、吉野から遠州へというと、当時の陸上権力にまつろわぬ人々を頼って浦伝いに、という感じがする。親王はさらに天竜川を上り、信州大河原に御所を建て、征夷大将軍となるのだが、これも当時の「塩の道」あるいは「塩辛の道」だったのではないか、というイメージがある。

渭伊神社はそれより遥かに古い古墳時代の磐座なのであって、棚田の米しか知らなかった遠州に、大規模水田開発をともなう「米食う人々」が現れた頃のもの、と想像できる。「井伊」という吊も「飯」のことかもしれないのだ。水田稲作による白飯と魚の塩蔵発酵食品という、東アジアを広く覆う「理想の食生活」が遠州で初めて実現したのが、井伊谷つまり飯谷であるのかもしれない。水田稲作の伝搬ルートが「塩辛の道」であれば、渭伊神社が祀られた頃、信州飯田はまだ「飯田」ではなく別の吊前で呼ばれていたかもしれないのだ。

舞阪では2kg程の鰹を1,000円/kgで買ってきた。この分なら今年はもち鰹が腹一杯食えるのではと、少し期待出来る値段だ。上り鰹かというに、判然としない。料理屋をやっている友人によれば、かっては海鳥を従えて、南方から押し寄せて来る上り鰹を獲るのが、このあたりの鰹漁だったものが、いろいろの漁撈法が開発されて、上り鰹だけでなく、海中のあちこちにひそむ鰹まで獲れる様になった、ということらしい。

家まで走って帰り、もち鰹に舌鼓をうち、ビールと酒で流し込むと、Mさんは8時前の新幹線で東京へ帰った。「ひ」と「し」の区別のつかない江戸っ子はやはり気が短い。

090330魚政のおやじ
090209節分の鰹
081022もどり鰹
081003もどり鰹
080909巻網の鰹
080908鰹の塩辛
080903鰹は片身
080814もち鰹08
080507六日の鰹
080418もち鰹ではあるが
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