2007.5.3

一昨年の豊漁と対照的に、昨年の遠州は鰹が不漁であったようだ。魚政のジイサマは送りの鰹で塩辛を作っていた。鰹がダメなら河豚はどうかと思ったが、こちらもたいしたことはないらしい。というか、「遠州トラフグ」のプロモーションが効き過ぎて、捕れるそばから捌けてしまい、品薄なのだそうだ。

4月末に記録映画作家松川八洲雄氏の納骨が下伊那郡大鹿村で行われることになった。これはこれで一つの「20世紀の終焉」だったのだが、私には遠山谷を辿ってみる、という事自体に興味があった。

針の穴を潜って外の世界を見たものが、国に帰って近代化を進める、という文明開化の仕組みを遠山谷に当てはめることも出来ようし、高遠ではそうした人の一人として伊沢修二の郷土資料を得ることが出来た。

しかし青崩峠から杖突峠に至る殆ど一直線の遠山谷は中央構造線で形作られたものであるといい、日本列島の成り立ちそのものにも近い、遥かに古い歴史を持っている。そのような地形と人間のかかわりの一つが「塩の道」と呼ばれるものだ。今回はこれを実地に検証してみたかった。

「塩の道」と言うと、現代の我々は精製食塩と言う荷姿を想像してしまうが、これは古来のものではないだろう。それぞれの時代なりの精製塩もあったにはあったろうが、それだけではなく、各種の塩蔵品があったことが想像される。7世紀以来、税として都に運ばれた「荒堅魚」ナルモノが鰹の塩蔵品ではなかろうか、というのが私見なのだが、「藻塩草」にしても浪速津の特産ということであれば、我々が口にする塩昆布の原形かも知れない。ともあれ白米を主食に、海産物や大豆の塩蔵醗酵品を副食にするのが基本である稲作民族であれば、「塩の道」にも海辺からの塩蔵醗酵品が運ばれた、と考えておかしくはないだろう。

そんな訳で遠州舞阪港魚政商店の塩辛を土産とすることにした。本当を言えば「山の民」に食べてもらって感想を承りたかったのだが、各地から衆参した文化人達は舌が肥えており、持ち込んだ3本は売り切れてしまった。しかしこれだけで終わる訳には行かないのである。

大鹿村は旧大河原村と鹿塩村が合併して出来た、とのことで、熊野を発して遠州白羽の浜に上陸した宗良親王が、安在所としたという大河原は、遠州に縁があるのだが、鹿塩の方は鹿が塩を嘗める泉がある、というのが地名となっている。中央構造線に裂け目があり、数千万年前に地中に封じ込められた海水が地熱で凝縮し、塩を取ることができる、という我国では珍しい「山の塩」の産地なのだ。これを逃す訳には行かないので、ミヤゲモノヤでひと袋買い求め、遠州舞阪港魚政商店に持参し、次回の仕込みに使ってくれる様頼んで来た。7月辺りには信州大鹿村の「山の塩」を使った鰹の塩辛ができる予定である。魚政のジイサマは精製塩が気に食わないらしく、「おい、20kgでいくらぐらいだか。」と値段を気にしていた。



090330魚政のおやじ
090209節分の鰹
081022もどり鰹
081003もどり鰹
080909巻網の鰹
080908鰹の塩辛
080903鰹は片身
080814もち鰹08
080507六日の鰹
080418もち鰹ではあるが
070918今年の鰹
070727ごんじい
070507私のレシピ
070507塩辛の道2
050703塩辛の道
050703鰹の季節
040805異常気象
030615塩蔵醗酵食
020623今年の鰹
010924 もち鰹あります