酷暑悶熱なのだから、魚も涼しい方が良いかというと、やはり冷水隗は嫌われているようで、今年はすでに5月の連休に鰹が全く無かった。7・8年ぶりの事という。6月に入っても舞阪には鰹は見えず、和歌山の船も帰ってしまったらしい。魚政のじいさまは仕方無しに枕崎の鰹やら勝浦の鰹やらで塩辛を作っていた。それが7月に入って塩辛を買いにいったついでに港を覗いてみると、地元の船が鰹を下ろしていた。2艘で小さな鰹が100本かそこらなので油代にもなりそうもない。しかし折角だからと声を掛けるとkg当り1,800円だという。1.5kgの小さなのが2,700円というトンデモネー値段なのなのだが、船を2艘も出して、問屋でも大の男が何人も立ち回って、と考えると仕方無しとも思える。「この時期、地物の鰹がないと、商売が成り立たない。」という浜松近辺の料理屋連に泣きつかれての出漁かもしれない。ポケットに2,500円あったので、それで買い叩いて来た。もち鰹なので、氷で締めるということはせず、発泡スチロールの箱に入れてそのまま持ち帰って食う。このところ収入がそれほどあるわけでもないのに、どこかの御大尽の真似をしているとそのうち女房に捕まって質草にされそうである。
駅前のイトーヨーカドーへ買い物によったついでに、気付いて魚屋のカウンターへ「鰹の皮はないか」聞いてみた。「アラじゃなくて皮が欲しいだね。魚釣りのエサだね。」「オレが煮て食う。」「またあ、エサにするのは分かってるで、秘密にせんでも。アラだったらネコのエサだけど。」というわけで食うと言っても信じてくれなかった。ヨースルに私の好物はネコ以下、サカナのエサ並みということである。しかし鮭の皮の焼いたのといい、鰹の皮の煮たのといい、旨いのだ。生姜を多めに入れて佃煮風の濃いめの味にするのだが、野田の醤油を使わず、「溜り」を使うのが肝心である。ところが三河から遠州一帯で「溜り」と呼ばれて来た調味料が最近次第に見られなくなっている。見かけるのはペットびんに入った野田の醤油およびその類似品である。スーパー等で酒売り場以外に一升びんの棚が無い→「溜り」のメーカーは「ペットびんに入れて全国制覇」というマルコメミソ的発想をしない、という関連であろう。いざとなったら料理屋連の仕入れ先にあたってみよう、と思っていたら、確実に入手できそうなところを発見した。池町芳蘚寺脇の、一見酒屋と見える家が実は江戸時代からの醤油屋であったのだそうだ。なるほど最近醤油屋を見かけないと思ったら、やはりペットびん入りの野田の醤油およびその類似品にせん滅されてしまったのだ。一見すると酒屋なのだが入って聞いてみるとやはり醤油は醤油屋に限る。野田の醤油およびその類似品も揃っているのだが、ちゃんと溜りも各種揃っている。現在では三州高浜が主要産地だそうな。カラメルで色を濃くして増粘材を加え、ウナギのタレが簡単に出来ます、という見慣れたメーカーのもの以外にも、有機栽培の大豆を始め、原材料から添加物まで伝統製法のもの以外は使っておりません、という有機溜りまであったので、これを買って来てみた。着色料・増粘材入りよりさっぱりしているので、じっくり煮込まなくてはならない。
「東京橋場黄昏景」小林清親 明治9年
もち鰹の刺身は冷酒で腹に納めてもまだ外は明るかった。皮を生姜で煮てもまだ外は明るい。皮を肴にもう一杯やってもまだ明るい。これは太陽暦24時間制というのがいけないのである。江戸時代で行けば七ツになるかならない内に午後6時になってしまうのである。その代わりと言っちゃあナンだが、冬になりゃあ午後の6時と言やあ五ツ過ぎだぜ。文明開化と言うのは何とも面妖なモンだ。というのが明治時代の時間感覚ではなかったかと思う。その所為か圓々珍聞の小林清親は月日時刻を記した絵を何枚も残している。明治9年に描かれた有名な「東京橋場黄昏景」には時刻の記入がないが、夏至頃の「以前で言やあ暮れ六ツ前」であろう。
下って大正14年には川瀬巴水が「浜町河岸」を描いている。震災復興都市計画も橋が新しく架かったくらいで、この辺りにはまだカミソリ護岸も無く、江戸以来の下町が現在でいえば堤防の外側のダンバールハウスのある辺りの高さに並んでいる。当時流行ったモダンな創作版画に対抗して「双作版画会」というクレジットが入っているのは清親の「東京橋場黄昏景」の改作という心なのではないかと思う。これも「以前で言やあ暮れ六ツ前なんだが、三崎から走らせた鰹があるから硬くなんねえ内に食っちまおうぜ。」という時間帯であろうか。
「浜町河岸」川瀬巴水 大正14年 いせ辰