ピーターラビットと機関車トーマスが湖水地方で立ち回りを始めるより少し前の1841年には、ロンドンからブリストルに達するグレ−ト・ウェスタン鉄道が開通しました。始発のパディントン駅のホームには当時のイメ−ジを活かした鉄骨の屋根が整備されています。

ちなみにクリスタルパレス
http://www.iath.virginia.edu/london/model/animation.html
は1851年の万博のメインパヴィリオン。



パディントン駅を出てすぐに始まる工業地帯は、19世紀の建築、町並みが近代産業を支えていた様子が伺われました。巨大な工場のてっぺんにとりつけられた時計が、それまで「日の出から日の入りまで」と、自然の摂理に従っていた生活が、産業の側の都合で動くようになった時代を象徴しています。









ブリストルは小説「宝島」に描かれた通り、「奴隷、綿花、ワイン、煙草と、悪い事は何でもやって大きくなった街。(汽車の向いの席に座った鉄工場の社長談)」だそうです。

ゴシック建築の長老からは「土木屋の考えた、金を掛けただけでこけおどしの、、、」と評されるテンプルミ−ド駅はグレ−ト・ウェスタン鉄道全体の企画・設計を手掛けたI.K.ブルネルの手掛けたものでが、某市某大学前の結婚式場紹介会社が建てた教会、なぜか姿がよく似ています。

ブルネルは鉄道でロンドンとブリストルを結ぶだけでなく、蒸気機関による巨船での大西洋横断事業にも乗り出しました。最初1838年に就航したグレ−トウェスタン号では好成績をおさめましたが、その後グレ−トブリテン号が造られ、さらにインド航路に向けて建造されたグレ−トイ−スタン号は12,000トンと、当時の技術からすれば限界を超えていました。さらにブリストル自体がエイボン川を河口から10km程さかのぼったところにあって、我が国の千石船を外洋型にした程度の、帆船の時代には良港であったものの、川の泥と潮汐が大形汽船には適さず、事故を重ねた後、リバプールなど外洋に面した港町にとって代わられる、という歴史を辿りました。

ブリストル市内には工事途中で資金難の為に工事が中断し、ブルネルの死後1861年に完成したという、初期の鋼製吊り橋であるクリフトン橋があります。資金難の原因は橋桁を吊るチェインであり、近代製鋼法の出来る前の鋼製チェインは、刀鍛冶が一本づつ叩いて造り出すものなので、工事費の半分以上をこのチェインが占めていたそうです。







機関車ト−マスの作者であるウィルバート・オ−ドリィ師は子供の頃、ブリストルの手前に当たるコッツウォルズで育ったとのことですが、このあたり、エイボン川とテムズ川を川船でつなぐ、近代以前の物流ル−トに当たる様です。中心地のチッペナムも川船の船着き場を中心にしています。

今でこそひなびた丘陵地帯として観光客を集めていますが、当時はロンドンと海外をつなぐ主要交易ル−トであったわけで、人々の暮しもそうした川筋の「川稼ぎ」が大きな比重を占めていた事でしょう。そうしたところへロ−マ時代の水道橋をしのぐ巨大な鉄道施設が姿を現しました。

おそらく川筋の人々の嗅覚は鉄道という新しい交通機関の可能性について、敏感・的確に感じ取ったものがあるはずです。オ−ドリィ師の子供時代の鉄道への憧れはそうした地域の人々の感覚を反映しているのではないでしょうか。

東海道浜松宿の旦那衆は東海道鉄道の可能性に期待し、国会に強訴をしてまで鉄道院工場を浜松に誘致して、その後の繊維・楽器・自動車といった近代産業につなげてゆきましたが、コッツウォルズは逆に河川舟運の中継ぎ基地から、単なる山間地の田舎町へと逆コ−スを辿りました。この地域にとって機関車ト−マスの時代は河川舟運の繁栄と先端技術が出会った「古き良き時代」とも言えます。

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 align="right"> pagetop