古山惠一郎
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その後の東京

湾岸開発










第二次大戦後、最初に策定された戦災復興計画では「将来」の東京都の計画人口は300万人だったそうです。しかしこの人口は軍靴にゲ−トルを巻いて買い出し列車にぶら下がった人々によってあっという間に踏みつぶされてしまいました。その後の全国総合開発計画、新全国総合開発計画、第3次全国総合開発計画と、いずれも東京の機能を地方へ分散する、と声を枯らして唱い続けて来ましたが、すでに東京の都市膨張は「核分裂段階をすぎ、核融合段階に入っている」のだそうです。つまり、常に燃料を足し続け、膨張し続けるしかなく、燃料を断って燃焼を制御しようとすれば、その時点で炉心溶融をおこしてしまう、というわけです。この点東京は欧米の近代都市よりもアジア・中南米で深刻化している都市集中に似ていると言えそうです。

すでに高密度の市街地で埋め尽くされた都心部で新たな開発用地を得ようと思えば海上しかありません。

伊藤滋さんによれば「首都圏で唯一のオープンエリアである東京湾を都市開発で埋めてしまえば、将来、取り返しの付かない都市問題の原因となりうる。」という事なのですが、現在の所、開発が止まる様子はありません。

そうした現在の東京の骨格を作り上げているものの一つに、都市交通があげられます。1964年、オリンピックに際して掘割を埋め立てて作られた首都高速道路は、東名高速道路と接続して東京の物流の主体となり、さらに東京湾岸一帯に新たな高速道路が作り続けられています。

東京計画60



東京計画60
新建築 1961.3

このような湾岸の未来像を『全国総合開発計画」の2年前、1960年に描いたのが丹下健三の「東京計画60」でした。

海上高速道路による梯子型の都市軸が東京から東南に延び、これに海上構築物からなる都市が発展して行く、というものでした。丹下氏はイメージとして描いた未来都市の姿なのかも知れませんが、その後の湾岸の埋め立て地の開発はこの海上都市の背景に書き込まれた埋め立て地のイメ−ジ通りの経過を辿っています。



ciudad Lineal, 1882-1913
Arturo Soria y Mata
ヨ−ロッパの近代都市と芸術
東京と現代美術館 1996

近代的な交通手段の発達によって都市が線形に形成されて行く、というイメージは19世紀末のヨ−ロッパにも見られます。図はスペインのソリア・イ・マータによるものです。このイメージでは都市交通の主役はは路面電車でした。というか、路面電車しか無かった時代。



Walking City 1964-1973
Ron HERRON / Archigram
ヨ−ロッパの近代都市と芸術
東京と現代美術館 1996

1960年代末、移動技術の進化を都市の未来像に重ね合わせて、鉄道の時代・自動車の時代の彼方を眺めたイメ−ジにはイギリスの建築グループ"Archigram"の"Walking City"があります。どこかビ−トルズの映画に出て来た「イエローサブマリン」に似ています。Archigram のイメ−ジした未来都市にはこれ以外にも都市機能を組み立て可能な部品化した "PlugIn Gity" 、都市を環境調整機能、通信情報機能などに単純化し、宇宙服のように、身にまとう事ができるものと考えた "Instant City" 等もあります。携帯電話等無かった時代に考えられた、というのが面白いところです。

「建築のアイコン化」








Seattle Post Intelligencer, 2001.9.11

目を陸上に転じると。都心業務地区がさらなる成長を続けている様に見えますが、こうした経済活動の為の都市の姿に大きな疑問を投げかけたのは2001年のニューヨークWTCへのテロでした。

都心業務地区の金融業務センタ−が破壊されたにもかかわらず、米国始め世界の経済活動には大きな支障はありませんでした。通信技術が発達する前に較べれば、業務施設が都心になければならない理由は遥かに小さくなっているはずですが、その分「象徴」としての意味が大きくなっているのではないでしょうか。

「通勤途中の車の中で聞いたラジオのニュースで事件を知り、会社に電話すると、ニュージャージーにあるバックアップオフィスへ行け、という指示だったので、そのまま高速に乗ってニュ−ジャ−ジ−のオフィスへ行き、その日の仕事をしたので別に困らなかった。」という証券マンのインタビュ−が印象的でした。

奇しくも"Architecture"誌の同年5月号で。1970年代以降「ポストモダニズムの教祖」と目されて来たロバ−ト・ヴェントゥ−リ氏が面白い発言をしていました。要約すれば

「近代建築は工業化以前の建築が持っていたイコノロジーを破壊してしまった。そして工業化建築それ自体がイコンとして君臨している。電子化、多文化、情報化の時代に相応しい建築のイコノロジーの再構築をしよう。」というようなことでした。

「イコノロジーの再構築」というと何だか難しいのですが、ヨースルニ「建築のアイコン化」というと分りやすいでしょう。「より速く、より広く、より薄く」という時代の要請は「形態は機能に従う」という、近代建築のお題目からはずいぶんと懸け離れたところまで建築をつれてきたものです。

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