2012.8.13
・洋風の住宅地
・和風の住宅地

・330㎥
・建て替え?
・500㎥
・南向き
・南下がり
・一旦停止を考えると
・国土利用の歴史
・建ぺい率と容積率
・あちこちの住宅地
・江戸のまちなみ
・ホームパーティーをやろう
・駐車場がなくっちゃね
・路上駐車


国土利用の歴史に
行き着く

1950年代の始め、日本の道路を走っていたのは進駐軍のジープくらいではなかったでしょうか。物資は一人が背負って、満員の汽車で運ばれていました。

1950年代後半に入ると、急速に経済発展が始まりました。「所得倍増」の時代の始まりです。しかし道路と言うものは一朝一夕には出来ません。



日米開戦とともに計画が決定、1942年3月8日に着工したアラスカハイウェイ2,700kmは、1942年8月28日は未舗装1車線で仮開通、翌年には往復2車線で舗装が終わっています。15.6km/日です。超スピードで道路建設が出来たのは工兵10,607名に加えて、20,000台以上の土木車両が投入されたことによるもの、ということです。

日本本土決戦に向けて進められた道路建設は、日本の降伏で中断、大量の復員兵を受け入れる為の住宅地建設が全米で始まりました。ベビーブームの始まりです。復員兵が運転する乗用車には、飛行機と同じ尾翼が付いていました。こうした住宅地が米国のテレビドラマの背景にもなっていました。しかしあの「サンセット77」のクーキー君は髪の毛をとかす以外に何かやっていたのでしょうか?

最初の例はシアトル市の中心部から6km程離れたマグノリア、1950年代に開発された住宅地です。中心市街地から少し離れると、10km程このページのバックの様に、同じ様な道路を持つ住宅地が続いていて、グーグルマップで見ると、少しうんざりさせられます。

Google map

戸当り敷地面積は165坪程ですが、道路占有率40%で主要道路巾は34m弱です。更に前面道路から壁面までは9m程の壁面後退が取られています。

歩道と車道の間の緑地帯には上下水道・電線などが埋められているので、日本の様に不要な舗装工事を繰り返す必要もありません。

これなら停止線で止まる遥か前から、相手の車を見ることが出来ます。ここまでしなければ自動車が安全に走ることの出来る市街地にはならないのですね。



勝っても負けても戦争が終わると人間は増えるものです。日本ではかつぎ屋をやって食いつないでいた我々の親の世代が、「死んだはずだよお富みさん」---戦争でかろうじて死なずに、生きて帰って来たのだから、国と会社は終身雇用で報いるべきだ」と主張し始め「サラリーマンは気楽な稼業」と言う時代に突入しました。

しかし道路はまだ日本に自家用車が無かった時代の姿のままでした。浜松では次の様な市街地が拡がっています。浜松駅から4km程のこの辺り、昭和の初め頃の耕地整理で作られた市街地で、当時としては広かったであろう4間道路は、車が増えたいまでは少し怖いものがあります。道路専用率12%-北米の1/3以下です。

Google map



びっしり家が建ち並んでいますが、50坪以下の敷地も珍しくない様です。最近の分譲地ではどうかと言えば、カーポートが必要なため、敷地面積こそ100坪に近づいている様ですが、北米では自動車の安全運行の為には、30m以上の巾が必要とされる住宅地の道路の方は、相変わらず巾6-8mと変わりません。バブル崩壊までなら「土地が無い」と言う言訳も通ったでしょうが、首都圏でも過疎化が進む現在、「土地が無い」というのもあまり説得力がある様には見られません。