はじめに
新居町の文学碑より
舘山寺の観光
マリンレジャー
水産業と暮らし
美しさの基準
将来イメージ
次の世代に
蒼い思い出
水のロケーション
書を捨てて
浜名湖からの伝言
濱名湖をすぎる
おとうさん、、
浜名湖っていったい
尾奈の老木
観光産業と環境産業
細江の皇帝ペンギン
湖面から見て

委員会資料


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静岡県建築士会
浜松支部

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「浜名湖の立面図」
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細江神社の横の歴史民俗資料館に行くと、南極の皇帝ペンギンの剥製が置いてあるのをご存じでしょうか。そこから3分程歩いた正明寺には江戸時代、琉球王朝から頂いた珊瑚石を墓石に使ったものが立っています。皇帝ペンギンの剥製は広瀬南極探検隊の資金援助をした人が気賀に居たとのことで、その人に送られたものが町に寄贈されたようです。明治時代、新しい産業の可能性が空前の拡がりを見せたとき、それに呼応する起業家精神がこの町にはあったのです。珊瑚の墓石は言うまでもなく琉球王朝の幕府入貢に際しての協力・功績に対して送られたものだと思います。細江町は数千年の「街道」の歴史を持っており、時代の最先端に目を向けて変化を先取りする起業家精神も、その歴史に依るところが大きいと思います。

車で走れば数分の距離ですが、井伊谷川沿いに引佐町に入ると景観は一変します。そこにはタイムカプセルに保存されたような「豊芦原瑞穂国」の豊かな風景が拡がっています。柔らかな山並みに囲まれて水田の拡がる様は「桃原郷」もかくやと思われます。実際引佐町は江戸時代を通じ、外の世の波風に弄ばれること無く、自ら足りる豊かな土地であったようです。謂伊神社には神社の形の最も古いものだと考えられる磐座があります。これも引佐町が極めて古い時代から稲作を中心として、安定した地域経営を重ねて来た証拠だとも言えるでしょう。

三ヶ日町には我が国でも数少ない石器時代の遺跡があります。今まで数少なすぎて研究の対象となりにくかった石器時代の日本人の研究は、近年、相次いで新しい遺跡が発掘され、急速に脚光を浴びつつあります。確かなことはその頃から浜名湖北岸が人類にとって暮らしやすい場所だったということでしょう。

湖西市入出は家康公浜松在城の折り、御用網を仰せ付けられ、その後江戸時代を通じて浜名湖内水面漁業の中心でした。それまで鯉と鮒であった献上魚が黒鯛と鱸に変わったのも浜名湖が最初です。現在、世界でも突出した魚食文明を誇る我が国ですが、「江戸前」と称し、河口汽水域の豊富な魚種を尊ぶ我が国の食文化を育んだ重要な原点の一つが、入出から浜松城に献上された浜名湖の魚だと考えられます。

白須賀中学の前には明治維新の折、明治天皇に具奉した岩倉具視の所感が石碑になっています。生まれて始めて太平洋を目にした、新政府のメンバーの意気込みが感じられますが、同じ場所は現在、21世紀に向けた太平洋新国土軸の起点として着々と整備されつつあります。

東海道の宿場だった白須賀と対照的に、鷲津の街には、蒸気船から汽車へという、我が国の近代を形作ったエネルギーがさまざまな形で残されています。力職機から自動車へ、という我が国近代産業の故郷の一つです。

新居の紀伊国屋さんは、元紀州藩の御用を勤めた船割宿で、当時紀州公に献上した名物鰻の蒲焼のタレがいまも大切に守られているそうです。関所の周りこそ埋められてしまいましたが、船入堀周辺には、東海道今切れの渡しの時代を彷彿とさせる貴重な水際の景観が残されています。

今でこそ海のリゾートといえば地中海でなければインド洋か南太平洋、ということになってしまいましたが、明治22年、東海道本線全通の折、我が国の海のリゾートの頂点に立ったのは、東京と大阪の中間にあって眼前に太平洋を望む絶景の地、弁天島でした。現在の我々一般市民の気ぜわしいレジャーと違い、当時のトップクラスの人々は競って弁天島に別荘を建てたのです。そうした歴史をもつ弁天島も、現在では新幹線の車窓に流れる数十秒の景色となってしまいました。何とか昔の繁栄を取り戻したいものです。

宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。現在、浜名湖の続きであった水田地帯と、三方原用水によって施設園芸の可能性の広がった畑作地帯とを斜面緑地が縁取って、都市近郊の豊かな「田園」の景観を保つっているこの地域は、全国有数の近郊農業地帯である浜松市の重要な構成要素でもあります。

同じような近郊農業地帯であり、「園芸博」の最有力候補である村櫛も、歴史的に浜名湖と深い関係をもっています。長く「浜名湖のへそ」の役割を果たした船付き場には干拓事業の記念碑が残されていますが、日露戦争の翌年に建てられたというそれには「強兵のみが富国の道ではない、古来我が国は農を本としてきた」と干拓事業の意義について述べています。高度の産業化が実現された今、環境保全に対する農業、水産業の役割を今一度振り返って見るのも、価値があることだと思います。

こうして浜名湖の周りを見ると、「世界史」「日本史」といった大きな歴史ではなく、地域ごとの「土地柄」が実はそれぞれの地域の歴史のなせる業だと気付きます。そしてそうした「土地柄」を目に見える形に残すことが、我々建築士に課せられた「未来を造る」役割りなのではないでしょうか。地域に住む専門家としてのそうした役割を探る上でも、浜名湖の立面図はさまざまな手がかりを与えてくれそうです。

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