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![]() 巾着状の小稲港。 |
4-5-4.小稲湊1.所在と地形県道下田・石廊・松崎線を手石港側から、石廊崎方面に弥陀トンネルを抜けると小稲である。 小さいながら天然の良港で、魚や伊勢海老などの磯物が採れる風光明媚な入江である。 東西に延びているリアス式海岸の岬にかこまれた巾着状の入江で、 西から平氏ヶ岳の支脈が海岸線まで迫っていて、街道沿いのわずかな平地に人家が密集している。
2.沿革小稲は昔は鯉名と書いたと言われているが、青野川上流に鯉名湊があったとも言われているので、 現在の小稲と手石を総称して鯉名湊として考えることができる。 源平の戦いの中では局地戦に過ぎないが、 南伊豆の地が戦場となった唯一の例として「鯉名の合戦」がある。 石橋山の戦いに敗れ、安房国に逃れた頼朝は態勢を立て直し、 治承4年関東の武士団を率いて、沼津黄瀬川に軍を進めた。 この時、伊豆の平氏勢力の伊東祐親が鯉名湊に船を集め、 海上より平氏軍に合流しようとしていた。 これを察知した頼朝は、天野遠景を派遣して鯉名に攻めて伊東氏を生け捕りにした。
鎌倉幕府成立後は、東西を結ぶ海上交通の要地として、日和待港としての地位が高まった。
また、海上交流により伝わったと思われる、伝統芸能、小稲の「虎舞」が残っている。
毎年旧暦8月14日の夜、来宮神社で奉納される。
江戸時代の劇作家、近松門左衛門が書いた「国性爺合戦」の一部を、
勇壮で華麗な舞いに仕立てたもので、大虎と竹やぶで格闘し、
生け捕りにして連れ帰るというお話。
近年は沿岸漁業の基地として、昭和初期から数度に渡って、
物揚場や船揚場、防波堤の整備が行われている。
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