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![]() 目次 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() | |||||||||||||||
![]() 石廊崎港船揚場 長津呂湊(右)と石廊崎(左) 「いつにき」 海若子/文政5(1822)年 南 松太郎蔵 より
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| 4-5-5. 長津呂湊1.地形長津呂は伊豆半島南端の石廊崎の東側にある、リアス式の狭長な入江で、 南北660m、東西100m両岸は集塊岩が絶壁をなし、 ビャクシンや松が岩上にはえる。その最奥が船繋場となっている。 港が細長いので長津呂湊と呼ばれていたが、地元の字名には長鶴という表示も残っている。 2.沿革古来、日和待ち港として、また石室権現の門前港として重要な港であった。特に、江戸時代には上り(上方方面)、下り(江戸方面)の千石船でにぎわい、下田奉行所の出先も置かれていた。今日でも「大阪屋」、「播磨屋」、「半田屋」等、廻船問屋の屋号が残っている。港の西壁絶頂にある日和山に灯をともして港の位置を示し、船が入江に入ると、とも縄を引いて繋留場に案内した。1626年、将軍家光の時に石廊崎灯台の前身ともいえる長津呂湊明シ行燈が設置される。木造で長さ4尺2寸、横2尺2寸4分で、13年から20年で建て直しをしながら、明治4年の西洋式灯台が建設されるまで続いた。
寛政5年(1793年)老中松平定信は鎖国政策を守るために、各地に海防施設を造る計画を立て、沿岸諸藩に対し海防を命じ、自らも実地見分の巡視を行い、3月24日に長津呂を訪れている。しかし、この海防計画は定信の老中失脚により実現しなかった。江戸城修築に大量の伊豆石が使用されたが、異国船防備の政策を急速に打出した幕府は、諸大名に石の供出を割り当てた。御台場築造が急を要し、輸送船の確保が難しくなると、港に入港する諸国の船に、一方的に石の輸送を強制する手段を講じた「取船」の記録が多く長津呂に残っている。現在長津呂港は石廊崎港と名前を変え、字名に古長津呂の名を残すだけとなっている。
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| ![]() 長津呂港岸壁 繋らん石
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| 3.景観資源自然細長い入り江は北欧のフィヨルドを思わせる景観で、両側の岩壁と松の景勝も素晴らしい。先端部では朝日が昇って夕陽が沈むまで、一日中太陽を追うことができる。また、岸壁の繋留場の近くに井戸があり、廻船用の水汲み場として利用された。当時寄港した廻船は水と交換に船の大きさに応じて米をおいていったと言われる。 海の幸・山の幸新鮮な磯料理が有名。伊勢海老料理や、この地方独特の骨までいっしょにたたく、鯵のたたき、タカベ料理や背ごし料理がある。ジャングルパークやアロエセンターが近くにあり、健康食品や観葉植物が即売されているが、附近でも温暖な気候を生かした花き栽培が盛んである。 歴史財
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| 4.長津呂のまちなみの様子と課題現況入江のいちばん奥の砂地を埋め立てて、観光客用の駐車場として整備、 駐車場に面して土産品の売店街が形成されている。 港の東岸には小型漁船用の繋留場があるが、収容力は大きくない。 現在、港は石廊崎めぐりや下田航路の定期観光船の寄港地として、 一年中観光客で賑わっている。旧街道沿いに密集する民家には、 風待港で栄えた当時の地名を使用した屋号の家が数軒残っているが、 古いまちなみの佇まいはほとんど残っていない。民宿は8軒あるが、 通年営業しているのは2軒にすぎない。 課題最近、松喰虫による被害がここでも起きていて、古老の話しでは、 断崖の松の景勝が少しずつ損なわれているという。 また、岬の先端部には未開発の素晴らしい眺望点があるといわれているが、 自然を損なわない遊歩道 ルート作りも今後の課題である。 現在の観光船の船着場から土産品の売店街にかけての景観は、 観光地特有の雑然としていてまとまりのない状況なので、 看板や施設づくりのルールを作って、景勝地にふさわしい修景整備を考える必要がある。 石廊崎への観光客も最近は減少傾向にあり、 海岸の景勝美だけに頼る物見遊山型の観光施策では、 時代のニーズに対応できなくなっている。 研修遊学型の新しい観光志向に対応した、 質の高い核となる施設の必要性が望まれる。 ここはかつて石室権現の門前港として栄えた歴史を持っている。 門前町の雰囲気づくりをコンセプトに、石廊の持つ歴史と文化を再発見し、 それを伝承する施策を考えたい。 黒潮文化博物館地元では新しい観光源について検討を重ね、 観光振興の拠点施設の必要性を町に要望してきた。 現在、町と地元で黒潮文化博物館等の構想が進んでいる。
このような開発に際しても、国立公園の優れた自然景観と共に、
南伊豆のこれまで歩んできた歴史が、
自然と生活の美しい関係を豊かな資産として残していることを念頭に、
このような資産を損なうことなく一層の活用が実現されることが望まれる。
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| 大日本帝國陸地測量部 明治19年測量、明治22年刊 二万分一地形圖「長津呂村」より 国土地理院 昭和58年改測、昭和59年刊 1:25,000地形図「石廊崎」より |