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目次 はじめに 監修の言葉 1.海の東海道と静岡県 2.千石船 3.江戸時代の港湾施設 4.伊豆の湊 5.駿河の湊 6.遠江の湊 調査を終えて
6-1.川崎 6-2.相良 6-3.御前崎 6-4.福田 6-5.掛塚 6-6.今切 6-2-1.はじめに 2.相良湊の概要 3.まちなみの現況と伝承 4.まちなみについての課題 5.次年度の課題 6.資料



近代的交通システムの要に位置する相良湊

相良湊周辺の広域交通イメージ

6-2-2. 相良湊の概要

2-1所在

相良湊は駿河湾西岸に位置し、現在は榛原郡相良町に属する。 萩間川流域、古くから「相良ノ相良タル所以ハ畢竟相良湊有ルガ故ナリ」と言われ、 駿河湾西岸における重要港であり、萩間から地頭方に到る地域の中心地であった。

御前崎港に近代港湾設備が整備され、これに湊の機能を譲ると共に、 これから相良・牧の原インター、静岡空港等の開港によってインフラストラクチャーの構造が大きく変わろうとしている。 御前崎港を見ても木材、砂利といった従来の荷扱い品目は最盛期すぎて減少傾向にある。 これからは後背地の産業構造の変化にいかに貢献するかが御前崎港にとっても課題となるが、 榛原郡、小笠郡の広い地域で、産業構造の変化が進行中である。 豊かな緑を守り育てる、競争力のある農業と、大規模工業立地の調和によって美しく、 住みやすいまちが構想されているが、相良町はその中核に位置している。 大都市、農村と比較した場合、近代的な田園都市としての相良町の特徴は次のようなものである。
大都市 農村 相良町
自然破壊 単調な生活 自然の美しさ
群衆のなかの孤独 仕事以外の労働 多様なライフスタイル
通勤地獄 長時間低賃金労働 高所得
住居の過密 低い土地利用 優良宅地の供給
洪水等の災害 きれいな空気と水

江戸時代以来、東海道線開通まで長く広域物流基地として栄えた相良湊は近代港湾、 インターチェンジ、空港といった近代的交通システムに従来の機能を譲り、 それらの中心に位置して地域の都市的な核の役割を果たす事になるであろう。 国道150号線のバイパスが開通すると、現在の国道は生活、観光道路として機能することとなり、 広域交通イメージは左のように考えられる。


大日本帝國陸地測量部
明治21年測量、明治23年刊
二万分一地形圖「相良」「大江」より

国土地理院
昭和45年改測、昭和54年修正、昭和56年刊
1:25,000地形図「相良」より


掛川往還の峠から見た相良湊。
交通システムの発展と共にさらなる成長、発展の望める今、 優れた湊として長い間栄えてきた相良湊の恵まれた地形がますます重要になる。
2-2.地形

かって萩間川は平田寺から小堤山までの広い地域を氾濫原として、「小堤山は往古、浮山といいしとぞ」と言われる様に、大きな出水の度に流路を変えていたことが想像される。樋尻川も萩間川の主流をなしていた時期が考えられるわけで、現在は地名としてしかその姿を残していない鎌倉河岸も、実際には相良湊の中心であったことが考えられる。また、洪水に匹敵する自然の力として釘ヶ浦一帯には沿岸流による砂の堆積がある。荻間川の川口を塞ぐ形で、平田から須々木にかけては海抜10mを越す浜堤列が形成されている。この海岸堤の裏側には萩間川が蛇行し、湊として優れた水面が形成された。萩間川の川口にこうして形作られた相良湊は、当然のことながら砂で埋まる。かっては堰を作って水をいっぱいに貯め、これを切って落し水の勢いで砂を除けていたというが、その場所は不明である。

江戸時代には潮の干満により湊口で7尺から1丈2尺、橋下で1丈3尺から2丈といわれている相良湊の水深は、安政の地震で3尺余浅くなった。さらに明治になり、砂除けを完全に行なうことが出来なくなると、湊口で1尺余から2尺4・5寸、橋下で2尺から4尺となってしまった。しかし、2000石級の廻船が母港としていた泉州堺湊でも「深さ五、六尺」、灘の樽廻船が利用する兵庫湊に到っては「深さ四、五尺」であったことを考えると、18世紀、田沼意次侯の折、相良湊の整備が最も行き届いていた時代には相良湊は国内最大級の船を入れることの出来る湊であったと思われる。

現在、萩間川の河口には水防水門が設置され、この外側に漁港が整備されている。


車=高貴な人の乗り物、船=海に浮かぶという連想から、車船となると想像を絶した秘密兵器と考えられていたようである。 これは文政6年(1832年)水戸藩に報告されたイギリスの「車船」。 「車」には帆掛け船の帆が取り付けられている。


古くから優れた湊として栄えた相良の水辺には、今も変わらない姿が様々な形で残されている。
2-3.沿革

相良湊の沿革は田沼意次侯抜きには考えられない。ここでは意次公以前の相良湊、田沼意次侯の時代、 意次侯以降の相良湊についてそれぞれ考えてみたい。

意次侯以前の相良湊

藤原氏の荘園として古くから栄えた相良庄には、天延3年(975年)、遠江守として下国した工藤氏が周頼のときに入り、相良氏を名乗った。相良氏は後、九州へ移るが、その折にも宗像氏との関係が見られ、それまでも、湊を中心として相良が有ったものと考えられる。

白川法皇と藤原氏が保元の乱(1156年)を戦ったおりには「源為朝、平家を亡さむ志ありて、車船という船を作り、郎等を率いて大島を乗り出し、荒波を凌ぎ渡り、三河の国に着き、矢作の「わたり八町」といふ処に来たり、遠江相良に城地を見たておき、そのわたりより尾張にかけて所々に郎等を潜ばせておき、その身は尾張の市部に遷り居て、川船にて密かに飛騨の国に度々往来して、味方を催しけるほど、郎等ら平家に捜し出されなどし、事ならでやみぬ。(中外経緯伝、伴信友、文化3)」とあるように源平の両軍は常に水軍を重要なものと考えており、関東武士団にとって相良が「遠江相良に城地を見たておき、」という、戦略上の重要地点であったことがわかる。

鎌倉幕府が北条氏に変わって後も相良の地位は変わらなかった。名波の姓は南北朝時代に功あって、須々木海岸に上陸した宗良親王より賜ったものとも伝えられている。

天文19年(1549年)には今川義元が平田寺に野菜運搬船を寄進したことが記録されている。今川家にとって相良港が海運上の重要な拠点であったこと、鎌倉河岸だけでなく平田寺の管轄する湊が始められていることがわかる。 平田寺川口に移った相良湊は商業港としての性格を強めた。水軍対策と高天神城の兵糧輸送のため、武田勝頼は天正4年(1578年)相良に城を築かせている。相良海戦の後、天正9年(1581年)には高天神城とともに相良湊も徳川方に帰すこととなった。

天正12年(1584年)徳川家康は相良城を相良御殿として修復した。ただし相良湊周辺には陣屋のみで町屋は無く、相良御殿への奉公も出来かねるため、後に町役を仰せつかる治左衛門が願い出て文禄4年(1595年)には新町24軒、続いて前浜町、市場町等が建設された。

治左衛門は当初300俵積みの船を作って駿府、荒井間の小廻し廻船を営んだという。家康は元和2年(1616年)に到るまで度々相良に滞在し、船遊山を催したというが、相良の風光を楽しんだだけでなく、領内の吟味を兼ねていたであろう事が考えられる。同じ年幕府は下田奉行所、船改番所を開設して、江戸に出入りする船は全てその発行する船切手を必要とすることとした。その後寛永10年(1633年)には日本人の海外渡航禁止、寛永11年(1634年)には 蝦夷地通商を松前藩に限り、琉球を島津藩に委ねる、寛永18年(1641年)には外国との交易を長崎出島に限ることとして鎖国が完成した。



庶民にとっては塩昆布くらいしか恩恵のなかった北前貿易も、莫大な利益を挙げていた。 らっこの毛皮も最高級品として長崎から中国に輸出された。蝦夷島奇観(東京国立博物館)
田沼意次侯の時代

先ず田沼意次侯相良入国の頃の情勢について触れておく。

寛文11年(1671年)には河村瑞賢によって東廻り航路が完成された。これには航海技術上の意味以上に、廻船経営の変革が大きな意味を持っている。戦国時代以来兵糧米を運ぶ官船としての運用が主であった廻船は、やがて廻船問屋による請負から海運の危険性を荷主である各藩が負わず、これを廻船問屋に負担させる形態になっていた。これと平行して織豊期以降、力を付けた浪速経済が、米を始めとした流通経済を支配した。廻船問屋の中には「大名貸し」として藩財政に力を及ぼすものまで出てきた。元禄文化はこのような関西経済圏によって支えられたものであった。

18世紀当初の江戸は人口100万人、首都機能のみで生産を伴わない、消費都市であり、対する大阪は30ー40万人、幾内の後背地に進んだ農業技術を基盤とする高い生産性を持つ流通センターであった。

戦国時代に停滞していた新田開発は江戸開府とともに息を吹き返し、全国的に耕地面積が増加した。幕府財政は享保の改革までは、こうした生産力増大で賄うこと出来た。全国の耕地面積の推移を見ると、

1600年1,635,000町歩100%
1720年2,970,000町歩182%
1874年3,050,000町歩186%

となっており、亨保の改革までに可耕地の開発がほぼ終わったことがわかる。享保の改革は農業生産の頭打ちを緊縮財政で乗り切ろうとしたものであったが、失敗に終わった。

田沼意次が遠州相良に領地を拝領したのは、宝暦8年(1758年)正式に評定所出席を許され、幕閣に参加したときであるが、このとき意次侯に求められたことは、こうして完全に破綻した幕府財政を、どうにかして建て直すことだった。結果から見て意次侯の財政再建方針は次のようなものだったと考えられる。

  1. 関東の農業生産性を幾内同等に高める
  2. 全国統一の貨幣流通の確立
  3. 流通改革
  4. シーレーン防衛

1.については印旛沼(1767年ー)、手賀沼(1769年ー)の開発が代表的なものである。また2.については安永元年(1772年)南鐐二朱銀の発行が挙げられる。これらは意次侯失脚後も優れた政策として受け継がれ、文化、文政期に到ってそれまでになかった江戸文化の昂揚として現象した。3.については明和8年ー9年の河岸吟味等が挙げられる。またそれまで松前藩の占有のもとに北前船が独占していた蝦夷地との交易、開発を、松前藩、北前船の既得権を犯さずに進めるため、天明6年(1776年)には蝦夷地調査が行なわれた。これは同時に4.をも念頭においたものであった。明和8(1771年)には長崎オランダ商館に露西亜南下情報がもたらされていた。当時のシーレーン防衛の最重要航路は、言うまでもなく江戸と上方を結ぶ廻船航路である。そのため下田には下田奉行所、船改番所が設けられていたが、意次侯の下で幕府によって実施された政策を考えると、意次侯は遠州相良に領地を拝領するについて、それ以上のことを考えていたのではないかと思われる。

下田はシーレーン防衛には有効だが、後背地がないので流通に利用できない。そのため下田奉行所、船改番所は海関機能のみの為に維持されなくてはならず、大きな負担となる。また兵糧補給などにも限界があり、露西亜南下情報などから想定される、従来考えられなかったような長期戦、消耗戦があったときには下田は意味をなさない。

これに対して相良には東海道に四通八達する道があり、農業、畑作に適した土地が拡がっている。更に江戸、大阪のような繁栄をもたらしうる湊がある。幕府の蝦夷地調査隊は単に領土保全、開発の調査だけでなく、千島、樺太の実体、アムール川下流との交易までも調査対象としていた。江戸と上方を結ぶ廻船航路の中ほどに当たる相良は、実は鎖国の枠さえ越えた国際貿易港としての可能性をも秘めていたのである。

明和4年(1767年)

意次侯は御側用人、従四位下となると共に加増を受けて20,000石、城主格となった。10代将軍家治は意次侯に相良城築城について仰せ出された。家老井上伊織が相良に赴いて相良城の縄張りが始められた。

明和5年(1768年)

城濠着工、大原からもと樋尻川に落ちていた潮田川を、萩間川に付け替える。「萩間川は、往古相良町大江に至り分流して二川となる。本川は今の相良港にして、支川は新町裏を南流、横町付近を通り海に注ぐ。所謂、樋尻川是なり、されど今は只一小溝に過ぎず。(相良港沿革史)」という現在の姿を作り出した大規模プロジェクトであった。敷地に掛かる町屋の引越が始まった。

明和6年(1769年)

江戸より石垣師岡田新助が来て御石垣工事が始まった。

安永元年(1772年)

意次公は老中兼奥向となり城代として三好四郎兵衛が赴任した。

安永5(1776年)

湊橋架橋 安永6(1777年)

城内井戸、大手門、37,000石

安永7(1778年)

城内櫓、川端櫓竣工

安永9(1780年)

相良城竣工、意次侯から町方に対しては町屋を板屋根または瓦屋根にすることが命ぜられ、そのため困窮のものには62両の金子が下された。

現在、相良には仙台藩から寄進を受けたと伝えられる、「仙台河岸」が残されているが、仙台藩が慶長17年、藩独自に西洋型帆船を建造して支倉常長の使節団をメキシコ経由ローマまで送ったことのある開国派であることを考えると、意次侯の相良城築城が、公然とではなくとも、鎖国に柔軟な考えをもって進められたもの、と受けとめられたことも否定できない。事実、20年を出ずして、寛政2年(1797年)にはロシア使節ラクスマンが根室へ来港し、寛政8年(1796年)ブロートン中佐を艦長とする英国海軍のフリゲート艦プロビデンス号が 松前藩、噴火湾へ来港するなど、日本近海には開国を求める近代の波が押し寄せた。

寛政7年(1795年)幕府はそれまで「打ち捨てておけ」とされた外国の難破船を救助するよう命じたものの、嘉永7年(1854年)の下田条約に到るまで、我が国の外交政策は常に受け身の立場に終止したが、意次侯の近代的、合理的な状況判断が役立てられたら、せめて将軍代変わりに伴う意次侯の幕閣最高位からの引退があと5年遅ければ、あるいは我が国と、相良湊の運命も違っていたであろうと思われる。600石の小姓の家に生まれ、幕閣の頂点まで先見の明によって独力でのぼりつめた意次侯は、誰に対しても「疎意失礼無き」ことを家訓として残した。意次侯隠居後わずか70年にして日本は開国の道を歩まなくてはならなかったが、その後の日本は隣国に対し交易、交流の道を守らず、武力の強要によって道を誤った。現在の日本が世界の国々と交易、交流を守ることで繁栄している姿は、意次侯が相良城築城の折に描かれた理想像に近いものであろうと考えられる。

我々はただ意次侯が実現した明和から天明に到る間の産業経済の改革によって、国力が増進し、近隣諸国と同じ植民地化の道に落ちなかったことを多とするのみである。


弘化3年(1846年)ペリーに先だって浦賀に来航した黒船。 巨大な黒船と比較すると、対する松平大和守の乗船はいかにも小さすぎる。 意次公の様な先見性を持たなかった幕府外交は、これ以後受け身に終止した。
意次公以降の相良湊

壮大な将来像をもって始めたられであろう相良築城も天明7年(1787年)、意次侯の家禄没収、隠居によって無に帰した。しかし相良湊はその後も類まれな立地を生かし、明治22年東海道鉄道の開通に到るまで、駿河湾沿岸の小廻しに留まらず、江戸から瀬戸内に到る海運の基地として繁栄した。往時の姿をなお留めた明治時代の相良湊の姿は「考える会」委員のなかにも実地に記憶する方の居られるところである。

かっては廻船問屋が7・8軒あり、市場町にはに山口家という廻船問屋もあった。 相良を代表する西尾太郎兵衛家は明治27年に22代目がなくなっているが、 この人は明治になって蒸気船の就航に努力した事で知られている。 船の大型化のため外海に桟橋を作ろうとして、大鳥圭介、徳川慶喜等政府の要人に運動したが、東海道線には勝てなかった。 廻船資料については相良物産にも多数残され、保存されているが、未公開である。 仙台行の船もあった。熊野からは材木が来た。名古屋からは瀬戸物、建具、柳を運んだ。 柳というのは酒のこと。関東からは薬剤、釘、ガラスなども運んだ。 名古屋への船賃と金谷への駄賃が同じであった。 主要荷扱い品目は米、茶、椎茸、梅干し、梅酢、木炭、ヤシャシブ、松茸、 塩松茸、砂糖、木綿、薯切り干、塩、石灰、石油等であった。 (ヤシャシブは蚊帳を染めるのに使われた、オオバヤシャブシの実であるが、主として丘陵地に生えるハンノキの一種である。 「榛原」の「榛」との関係はまだはっきりしない。石灰は製紙原料として年間20,000俵、が津出しされたという。)

石油、明治16年石坂周造が始めたものが近代的な機械堀井の始まりであり、新潟よりも古く、近代石油採掘の先駆けである。明治17年には4000石を産出している。 このような相良湊の繁栄も明治22年東海道鉄道の開通によって急速に変貌することとなった。近年、明治頭初に東京遷都の提唱者であり、近代郵便制度の産みの親として有名な前島 密が地頭方から大須賀に到る運河を掘り、浜松を通って浜名湖に到る沿岸内陸水運を提案していたことが知られたが、これも鉄道計画に駆逐されてしまった。

明治22年測量になる地形図を見ると、相良の町は清水と殆ど変わらない繁栄を示している。ただ、清水港には東海道鉄道が走っているのに相良にはそれがないだけである。

世界に開く相良湊

21世紀を目前にした現在、韓国、中国等近隣諸国の急速な近代化、ロシアの「開国」によって東北アジアの交流、交易の姿が急速に変わりつつあり、近隣諸国を重視した新たな経済圏構想が求められている。同時に国際交流、国際交易は年を追ってますます増加している。200年前に意次侯の構想した交流、交易の姿がようやく現実のものとなりつつあると考えることもできよう。

時を同じくして御前崎港の整備、相良・牧之原インター開港、静岡空港構想が動き始めているが、これらの施設は全て、鎖国にとらわれない構想のもとに意次公が相良の未来を描いていたものが、現代の交通システムの中で発展したものと考えてもよい。意次公の構想で、これらの施設の中心に位置するのは言うまでもなく相良城である。意次侯は城を戦国時代の名残を留める軍事施設としてでなく、国際交易、交流を中心とした経済的繁栄の上に成り立つものと考え、湊に隣接した相良城の形を作り出した。21世紀に向け、意次侯の構想から200年を隔てた今、相良城と相良湊は国際的な機能を備えた現代の湊の整備が進むにつれてその意味を新たにしつつある。

平安時代から恵まれた環境として発展してきた相良湊は「福禄寿の湊」とも言うべきである。21世紀のさらなる繁栄に向かって、相良湊の繁栄の礎となった伝統的な環境を姿をぜひ末永く伝えたいものである。