田沼意次侯の時代
先ず田沼意次侯相良入国の頃の情勢について触れておく。
寛文11年(1671年)には河村瑞賢によって東廻り航路が完成された。これには航海技術上の意味以上に、廻船経営の変革が大きな意味を持っている。戦国時代以来兵糧米を運ぶ官船としての運用が主であった廻船は、やがて廻船問屋による請負から海運の危険性を荷主である各藩が負わず、これを廻船問屋に負担させる形態になっていた。これと平行して織豊期以降、力を付けた浪速経済が、米を始めとした流通経済を支配した。廻船問屋の中には「大名貸し」として藩財政に力を及ぼすものまで出てきた。元禄文化はこのような関西経済圏によって支えられたものであった。
18世紀当初の江戸は人口100万人、首都機能のみで生産を伴わない、消費都市であり、対する大阪は30ー40万人、幾内の後背地に進んだ農業技術を基盤とする高い生産性を持つ流通センターであった。
戦国時代に停滞していた新田開発は江戸開府とともに息を吹き返し、全国的に耕地面積が増加した。幕府財政は享保の改革までは、こうした生産力増大で賄うこと出来た。全国の耕地面積の推移を見ると、
1600年 | 1,635,000町歩 | 100% |
1720年 | 2,970,000町歩 | 182% |
1874年 | 3,050,000町歩 | 186% |
となっており、亨保の改革までに可耕地の開発がほぼ終わったことがわかる。享保の改革は農業生産の頭打ちを緊縮財政で乗り切ろうとしたものであったが、失敗に終わった。
田沼意次が遠州相良に領地を拝領したのは、宝暦8年(1758年)正式に評定所出席を許され、幕閣に参加したときであるが、このとき意次侯に求められたことは、こうして完全に破綻した幕府財政を、どうにかして建て直すことだった。結果から見て意次侯の財政再建方針は次のようなものだったと考えられる。
- 関東の農業生産性を幾内同等に高める
- 全国統一の貨幣流通の確立
- 流通改革
- シーレーン防衛
1.については印旛沼(1767年ー)、手賀沼(1769年ー)の開発が代表的なものである。また2.については安永元年(1772年)南鐐二朱銀の発行が挙げられる。これらは意次侯失脚後も優れた政策として受け継がれ、文化、文政期に到ってそれまでになかった江戸文化の昂揚として現象した。3.については明和8年ー9年の河岸吟味等が挙げられる。またそれまで松前藩の占有のもとに北前船が独占していた蝦夷地との交易、開発を、松前藩、北前船の既得権を犯さずに進めるため、天明6年(1776年)には蝦夷地調査が行なわれた。これは同時に4.をも念頭においたものであった。明和8(1771年)には長崎オランダ商館に露西亜南下情報がもたらされていた。当時のシーレーン防衛の最重要航路は、言うまでもなく江戸と上方を結ぶ廻船航路である。そのため下田には下田奉行所、船改番所が設けられていたが、意次侯の下で幕府によって実施された政策を考えると、意次侯は遠州相良に領地を拝領するについて、それ以上のことを考えていたのではないかと思われる。
下田はシーレーン防衛には有効だが、後背地がないので流通に利用できない。そのため下田奉行所、船改番所は海関機能のみの為に維持されなくてはならず、大きな負担となる。また兵糧補給などにも限界があり、露西亜南下情報などから想定される、従来考えられなかったような長期戦、消耗戦があったときには下田は意味をなさない。
これに対して相良には東海道に四通八達する道があり、農業、畑作に適した土地が拡がっている。更に江戸、大阪のような繁栄をもたらしうる湊がある。幕府の蝦夷地調査隊は単に領土保全、開発の調査だけでなく、千島、樺太の実体、アムール川下流との交易までも調査対象としていた。江戸と上方を結ぶ廻船航路の中ほどに当たる相良は、実は鎖国の枠さえ越えた国際貿易港としての可能性をも秘めていたのである。
明和4年(1767年)
意次侯は御側用人、従四位下となると共に加増を受けて20,000石、城主格となった。10代将軍家治は意次侯に相良城築城について仰せ出された。家老井上伊織が相良に赴いて相良城の縄張りが始められた。
明和5年(1768年)
城濠着工、大原からもと樋尻川に落ちていた潮田川を、萩間川に付け替える。「萩間川は、往古相良町大江に至り分流して二川となる。本川は今の相良港にして、支川は新町裏を南流、横町付近を通り海に注ぐ。所謂、樋尻川是なり、されど今は只一小溝に過ぎず。(相良港沿革史)」という現在の姿を作り出した大規模プロジェクトであった。敷地に掛かる町屋の引越が始まった。
明和6年(1769年)
江戸より石垣師岡田新助が来て御石垣工事が始まった。
安永元年(1772年)
意次公は老中兼奥向となり城代として三好四郎兵衛が赴任した。
安永5(1776年)
湊橋架橋
安永6(1777年)
城内井戸、大手門、37,000石
安永7(1778年)
城内櫓、川端櫓竣工
安永9(1780年)
相良城竣工、意次侯から町方に対しては町屋を板屋根または瓦屋根にすることが命ぜられ、そのため困窮のものには62両の金子が下された。
現在、相良には仙台藩から寄進を受けたと伝えられる、「仙台河岸」が残されているが、仙台藩が慶長17年、藩独自に西洋型帆船を建造して支倉常長の使節団をメキシコ経由ローマまで送ったことのある開国派であることを考えると、意次侯の相良城築城が、公然とではなくとも、鎖国に柔軟な考えをもって進められたもの、と受けとめられたことも否定できない。事実、20年を出ずして、寛政2年(1797年)にはロシア使節ラクスマンが根室へ来港し、寛政8年(1796年)ブロートン中佐を艦長とする英国海軍のフリゲート艦プロビデンス号が 松前藩、噴火湾へ来港するなど、日本近海には開国を求める近代の波が押し寄せた。
寛政7年(1795年)幕府はそれまで「打ち捨てておけ」とされた外国の難破船を救助するよう命じたものの、嘉永7年(1854年)の下田条約に到るまで、我が国の外交政策は常に受け身の立場に終止したが、意次侯の近代的、合理的な状況判断が役立てられたら、せめて将軍代変わりに伴う意次侯の幕閣最高位からの引退があと5年遅ければ、あるいは我が国と、相良湊の運命も違っていたであろうと思われる。600石の小姓の家に生まれ、幕閣の頂点まで先見の明によって独力でのぼりつめた意次侯は、誰に対しても「疎意失礼無き」ことを家訓として残した。意次侯隠居後わずか70年にして日本は開国の道を歩まなくてはならなかったが、その後の日本は隣国に対し交易、交流の道を守らず、武力の強要によって道を誤った。現在の日本が世界の国々と交易、交流を守ることで繁栄している姿は、意次侯が相良城築城の折に描かれた理想像に近いものであろうと考えられる。
我々はただ意次侯が実現した明和から天明に到る間の産業経済の改革によって、国力が増進し、近隣諸国と同じ植民地化の道に落ちなかったことを多とするのみである。
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