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![]() 目次 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 6-1.川崎 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() | ||||
![]() 小学校入り口はかっての大手門にあたり、現在でも松の木などに往時の面影を偲ばせる。 |
6-2-3.まちなみの現況と伝承地域の中心として近代的な姿を見せる相良の町にも、少し気を付けてみると先人の足跡がそこここに偲ばれる。 しかし目に見えるものだけから現代の我々がとらえると、その全体像はなかなかつかまえることが難しい。 仙台河岸の様にかろうじて残っているものはよいが、先祖の築いたものと言っても、 その多くは礎石しか残っていないので、なかなか想像するのが難しい、というのが現状だろう。 これには相良が京都のように過ぎ去った昔のみに生きるのでなく、 地域の商業中心地として機能していることも大きく影響している。 また相良は昔から商業の町であり、商人の力が強かったこともうかがえる。 外堀も外側は町人が自分達で積んだであろう様子をしている。 こうした城下町でありながら、一般の城下町とは違う気風を相良が持っているのも、 その起源は田沼意次公のまちづくりに有るのではないだろうか。政治の世界で意次公が失脚させられたにもかかわらず、 「まちづくり」の主体がお城ではなく、商人を中心とした町人によってによって担われていたと考えられることに、 意次公の遺訓が生きていると言ってもよい。 これを裏返すと民間活力導入による弊害も相良が昔から経験したことであった。 琴平さんを山から下ろして砂を売ろうと考えてバチが当たった、小堤山を削って売ったらどうだ、という風に、 相良では何事も商売を先に考えるということが多かった。 現在、商店街でも街路整備が進められているが、まちづくりでも、 特に「まちなみ」の整備については街路に面したそれぞれの敷地で、どのような景観を作り出すかが問われている。 行政主体のまちづくりではなく、町民が自らの手でまちづくりを考えることは意次公の遺訓を生かすことにもつながる。 ![]() | |||
![]() 図1 現在の相良湊周辺の道路網 図2 相良城図 図3 相良城図を現在の地図に重ねたもの 17世紀のアムステルダム、萬国絵図屏風の部分、宮内庁蔵 17世紀のフランクフルト、同
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| 3-1.相良城意次公の考えていた城下町の姿を現在の相良に残された遺構から考えてみる。 図3.からわかるように、大沢寺から大手前にかけての一帯は意次公築城の時の道路計画によらない、 それ以前の古い町割りの残っていた地域であると考えられる。 これは「鎌倉河岸」という地名を裏付ける。 また福岡町には民間開発によるかなり広い市街地がすでに有ったことがわかる。 意次公の時代の相良の町はこうした既存市街地を念頭に、 お城を中心にして武家地と町人地がこれを囲むという構造をとっていた。 そして最大の特徴は湊に面し、海水が堀を満たすという点であった。 何故このような城の構えが計画されたかを考えてみると、 意次公の考えていた城下町の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。 意次侯が偶然こうした地形を持つ相良に領地を得たとは考えられない。 意次侯が理想のまちづくりに適したところ、と考える全国のいくつかの候補地にリストアップされていて、 前任者の国換えのチャンスを待っていたのではないだろうか。 意次侯の大名への加増自体が相良の領地の空いたのを待って行なわれたこともあるかも知れない。 岡崎が「城の下まで船が着く」とうたわれたように、全国の城下町で河川に面した所は多い。 蔵屋敷を出た御城米がすぐに荷舟に積み込めるからである。 当時の荷役方式ではこうして蔵出しした米が廻船に積み込まれるのは、 岸壁ではなく沖であるので、蔵屋敷、あるいは城が河口に立地する必要はなく、 河川を遡った所にあれば充分である。河口には廻船問屋、 船頭町を中心とした掛塚のような町が営まれるのが通例である。岡崎では吉良湊がこれに当たる。 意次侯は領地を拝領し、城下町を営むに当たって岡崎、浜松の様に城と湊が別れることより、 大阪、江戸の様に城下町が廻船の根拠地となる場所を選んだのであろう。 また仙台河岸に代表される開国派との交流を考えると、従来の廻船根拠地に留まらず、 海外交易もその構想に含まれていたと考えても不自然ではない。 幕閣の中心にあった意次侯は幕府の海外に関する情報、資料にも接する機会があったと考えられるが、 それはどのようなものであっただろうか。 明治時代、宮内庁に収蔵された17世紀の「萬国絵図屏風」が知られている。 世界地図、世界都市図の八曲一双二面の屏風は、 1607年、アムステルダムのウィレム・ブラウによって刊行された世界地図、 都市図に基づいたものであり、科学的要素と芸術的表現が未分化の当時にあっては、 最高機密に属する海外情報、資料であったと考えられる。 幕府においてもこれと類似の都市図が用意されていたと見ることが出来よう。 「萬国絵図屏風」にはロンドン、パリを始めとした世界の都市の図が掲げられ、 アムステルダム、フランクフルトと言った当時の貿易港の図も含まれている。 それらはいずれも大型船が入ることの出来る港となっており、城と港が一帯となっていた。 後に利根川水系の河岸吟味、蝦夷地探索を実施することになる意次侯は廻船、 あるいは流通改革の未来にこうした都市像を描いていたのではないかと思われる。 同様の資料は仙台藩にももたらされていたことが知られており、 仙台河岸はこのような都市建設の一環として行なわれたのではないかと思われる。 道路に関しても、それまでの曲の手、突き当たりといった要素を多用する軍事的な道路計画だけではない、 近代的な都市デザインの要素が含まれている。 市街地防火の為、大沢のお宮から城を曲手に曲がって福岡まで四間道が作られた。 当時五街道の筆頭となる東海道にあっても浜松宿の道幅が四間であった事を考えると、 画期的なまちづくりであったことがわかる。 意次侯の退陣と共に城は破却され、建造物の類は残されていない。 しかし現在もなお、意次侯の時代の相良城の姿を伝える遺構は町のあちこちに残されている。 特筆すべきは仙台河岸であろう。またこれに続く外堀も良く残されており、 特に外の町屋側に当たる部分の石垣には当時の相良湊の繁栄を偲ばせるものがある。 小学校の松もまた幕藩時代から守られてきたものであり、大手門を飾った景観として最も相良城の面影を伝えている。 後年、田沼意尊侯のおり、領民が材木を寄進して御殿を建てたという、その木材が須々木の幼稚園には残されている。 紋瓦であるとか、献木で作られたので、寄付した人の名前などが残っている。 ![]() | ||
![]() かっての相良城から河口を遠望する。相良を最も良く表す景観である。 仙台河岸の現況。湊に面した相良城のかっての姿を留める貴重な遺構であり、保存を考えたいもの。 |
3-2.相良湊、萩間川城と共に意次侯が構想した相良の町を最も特徴付けるものは湊であろう。 中世ヨーロッパの貿易港と肩を並べるためには相良湊では大規模な浚渫が必要であった。 船溜まりで1丈3尺から2丈といわれる現在の萩間川の姿からは考えられない水深も、 あるいは意次侯の時代に行なわれた大規模浚渫工事の結果であるかも知れない。 意次侯の構想した相良湊を傍証する資料としては天明6年(1786年)に建造された三国丸が挙げられる。 和船、ジャンク、和蘭陀船の長所を取り入れたもので、当時の廻船に使用されていた弁才船と異なり遮浪甲板を持つ、 外洋航海に適した国際貿易船である。 しかしそのような大規模浚渫は意次侯の退陣の後は二度と行なわれることはなかった。 千石舟も空船であれば水深3尺もあれば湊入りが出来、 荷積みを沖合で行なうかぎり深い湊は必要なかった。 遠景としての萩間川は現在の相良にあって最もよく当時の面影を伝えるものであろう。 萩間川はうまく蛇行していて、船を付けるのに具合よくできている。景観としても大事にしてよい。 湊口の松も相良を代表する景色である。こうした萩間川の景観は1ー1.5m程度掘り下げれば昔のような姿になる。 近代に入っても、浚渫は続けられており、矢部工業の50トンくらいの石炭船が入っていた。 明治時代から後の相良湊はナライが吹くと逃げようが無いというところであった。 弁才天、福田、掛塚、赤羽根に入れなくて、とうとう鳥羽大王崎の大王岩にぶつかって沈んだ船があるという記録がある。 伊豆の港のように山が風を止めて港が深くというものではなかったが、そのかわりに運ぶものがあった。 伊豆は石ぐらいしか運ぶものがなかったのでは無かろうか。相良城も石は伊豆石を使っている。 川沿いの景観に欠かせないものに仙台河岸がある。相良城は萩間川の向こうに見るのが他の城にはない姿であり、 これが生きるためには河岸が欠かせない。 大和明神社のそばにアライセキというものがある。 満潮時の海水を相良城の堀に引き入れて堀の水位を一定に保つ為の堰であった。現在一部が残されている。 ![]() | |||
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| 鎌倉河岸の下の樋尻川は、かっては船が入ったと言われており、 もっと広くてもよいはずなのに現在では狭くなってしまっている。 元に戻すのが無理なら面影だけでも残るような工夫をしたい。 湊の面影がちゃんと分かるように浚渫などをするべきではないだろうか。 このように相良は他にない独自の歴史をもっている。仙台河岸のあたりは是非何かに活用できるのではないかと思う。 遊歩道などあれば楽しめるのではないか。川と港が一つのテーマになって何か特徴のあるものが出来ると思う。 こうした相良湊の姿を後世に伝えるために考えられることに下水の浄化と河川治水が挙げられよう。 萩間川では現在もなお冬などには川の水が澄み、昔の姿を想い起こさせてくれる。 魚も昔と同じように泳いでおり、水鳥も湊につきものの声でないている。 こうした自然の姿に囲まれて昔と同じように、萩間川で子供達が水浴びをできるようにするためには、 都市下水の整備が不可欠である。 都市下水整備の計画がスタートした現在、町民の期待が集まっているところであるが、 萩間川の水質が向上するためには、これに留まらず市街地以外の広範な萩間川流域で、 かってとは比べものにならないほどの発展を見せている暮らしと産業の様々な活動が、 川の水にとって優しいものである必要がある。 産業排水のように比較的限られた姿を持つ排水についてだけでなく、 生活の近代化、多様化にともなって様々な成分を含み、 自然に対する負荷が飛躍的に上昇しつつある生活排水についても、 住宅用やコミュニテイー用の合併処理槽の普及が、 相良湊の水辺を親しみやすいものにするうえで不可欠だろう。 近年、平田地区では萩間川からの冠水を経験し、治水対策が望まれているところである。 こうした治水用の護岸についても、昭和40年代以降、防災を主眼にして進められた近代的な護岸が、 水辺の伝統的な景観を修復不可能な形に変化させてしまった、という反省が深まりつつある。 現代の堤防、護岸には治水の目的を満たすと同時に、歴史的な景観を保全する、 水質の向上に資する、といった様々な機能が求められている。 相良湊、相良城も横浜における山下公園、東京都の浜離宮の様に、海に接していてこそのものであることを念頭に、 河川改修についても様々な工夫が考えられよう。 例えば浜松市の佐鳴湖公園では河川としての佐鳴湖と、公園としての佐鳴湖とを両立させるため、 図8-Aの様な断面を整備するにあたり、Bのような標準的な護岸設計だけでなく、 Cの様ななるべく自然の姿を残した断面を現場の実情に合わせて組み合わせ、効果を上げている。 萩間川についてもDの様な断面をEの様に整備するだけでなく、 Fの様な修景護岸、あるいはCのような親水公園など、 なるべく自然に近い形での整備が可能かどうかを検討することも考えたい。 ![]() | ||
![]() 橋から湊口に残された松を見る。かって有った松の木は次第に少なくなってきている。 |
3-3.海岸城と共に意次侯が構想した相良の町を最も特徴付けるものは湊であろう。 家康公は相良陣屋に度々滞在したと言われている。 領内の視察をかねてではあるが、相良の風光を楽しみ、船遊山を催したと言われている。 海岸の景観の第一は駿河湾に浮かぶ富士山であり、近景を飾る愛鷹岩であった。 江戸時代を通じて、愛鷹岩は相良湊の海辺の名所であった。ここに鳥居を建てようという試みがあった。 伊豆で誂えた石の鳥居を運び、立てようとしたのであるが、龍神の怒りで沙汰止みになった。 相良陣屋以来、町人と武士との交流も海を中心に繰り広げられていた。 領主様が来ると、今日は福岡で浜に屋台を組んで鯛やら海老やらで御馳走。 次の日は波津で、という様にしたそうである。愛鷹岩のように相良の海岸を形作る景観は、 なるべく人の手を加えないで残しておいたほうがよいのではないだろうか。 昭和42年から民宿ということで始めているが、現在のところは単なる海水浴場という以上の活用がされていない。 郷土を愛す、それが観光資産に繋がるということでは先ず自分が相良のことを知らなくてはと思う。 相良の海岸を多くの人に楽しんでもらう、通年型の観光地として親しんでもらう、という為にも考えることは多い。現状では海水浴も雨が降ればダメである。海岸に全天候型の海水プールを作りたい。鎌倉河岸からできればシーサイドパークまで結ぶ遊歩道を作り、楽しく歩いてもらうことが考えられる。愛鷹岩を見る観光船を考えてもよい。愛鷹岩へ遊山にでかけるというのは相良独自の文化伝統である。明治時代には旧暦3月12日13日に潮干狩に行くというもので、家康公の船遊山を手本にしたものだが、明治のころに較べはるかに後退している。そうした相良独自のレジャーもあってよいのではないか。 ![]() | |||
![]() 土塗り壁、下見板、瓦葺きの造り ![]() |
3-4.町屋田沼侯は火事への備えということで、瓦葺を奨励して、補助金も出したという記録がある。板葺も多かったと言われるが、海岸の気候にあっているものが選ばれたと思う。昔は大黒柱には椎の木を使った。長さの取れる大きな木が多かったのだろう。船頭町というのは山下にあった。70ー80軒位。明治8年に福岡全体で220戸であった。 商店街にしてもやみくもにビル化してしまうだけでなく、昔の面影を残す工夫もあるのでは。 ![]() | |||
![]() 御船神事の千石舟、相良町資料館所蔵 |
3-5.生活文化相良で忘れてならないものは独自の味覚文化であろう。相良海老、かじめ、相良布、さわら、昔は料理屋が多かった。 イシダイ、カジメ、なども採れる。日清、日露戦争のころには蚫の養殖をやって輸出したこともある。 そうした相良はやはり浜なので言葉が荒く、他所の人はびっくりするくらい。そして人情が厚い。 船頭町では、男衆が航海にでている間、女がまちを守っていたということからか、 「お伝安サ」というふうにおかみさんの名前を先に呼ぶことになっていた。 相良の祭では言うまでもなく御船神事を挙げなくてはならない。 意次侯入国以前から伝えられる相良湊の廻船の歴史を伝えるものであり、使われる船も又貴重なものである。 祭には凧もある。流す凧である。昔は正月頃から子供が上げ始め、五月の節句までやった。相良と福岡の対抗でやったこともある。今は連休に紅白対抗でやっている。 無形文化財には御榊神事というものが菅ヶ谷にあって、文化財になっている。全国的に見ても貴重なものである。子生まれ石は珍しいものなので多くの人に見せたい。陣太鼓も他所の人に知ってもらいたい。 |